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第百話




 大きな戦乱だった。

 多くの国や領地を巻き込み、全面戦争に発展した経緯の、事の発端は分からない。

 それでも未成熟だった弟王は、強き兄王と、強固なる盾であった養母と共に、命からがら逃げ延びていた。

 安息の地はなく、絶えず敵と交戦する日々は、体力はおろか気力すら消耗する。次第に衰弱していく己と、気性が荒くなる兄を、養母はただ懸命に守り通していた。

 けれども養母と兄弟王は、ある二つの満月の晩。奇襲をかけられ離れ離れになった。

 傷を負った養母が撃墜され、フィーガスも飛べなくなった。

 兄王だけが膝をつかない中、養母は早く走れと叫んだことを、今も思い出す。

 止まってはいけない、逃げなければいけない。

 しかし兄王はいくら体躯が巨大とは言え、養母を引きずってはいけない。逡巡した隙を突かれ、自分たちは月を消すほどの土煙に覆われ、互いを見失った。

 ()()()()()()()()()()()()()ことを、今も鮮明に思い出す。

 フィーガスの胸に残るのは、死の恐怖ではない。

 敬愛する家族が、目の前で消え失せる絶望だ。


「僕は肉体ある魂の原初、海神の実子だ。倒れても再生する術がある。……だからこそ、君はあの戦場で、死んだ方がよかった。僕らは共に、あの戦場で死んだ方がよかったんだ」


 フィーガスら、神の国と呼ばれる場所の住民にとって、死という概念はそれほど重きを置かれる事象ではない。死を司る同族の元へ赴き、己の采配を知り、冥府より帰還することを、成長の通過儀礼として行う同族すらいる。

 フィーガスとリュグザの父は、生命の息吹を司る海。母は、永遠を司る黒き大蛇。他の同族より命の輪に戻りやすい。養母であるシガリアも両親の眷属なので同様だ。

 それでもあの戦場で逃げ延びようと思ったのは、散り散りになることを恐れたからだ。


「養母様、君はどうやって生きてきた? 己が排出した餌を食べて、どんな思いで生きてきた?」

「……わたしは、あなた達の、……幸せを願って……、生きねばならないと……」

「なら、僕らの祖国に戻ってこられなかった、理由はなんだ?」


 フィーガスの言及に、シガリアは口を閉ざす。

 ライネリカからエイロス国の話を聞き、シガリアの状態を実際に目にすることで、フィーガスの胸には疑問が生まれていたのだ。

 養母が人間に囲われ、搾取されていたのは事実だろう。あれほどの巨体になれば、確かに祖国に戻ることは難しい。

 だが彼女の、生存する部位を実際に目にした事で、フィーガスは次第に考えるようになった。

 餌を得るために目を覚まし、鉱物も生きている部位があるのに、本当に養母は祖国に戻る手段はなかったのかと。

 高潔で美しい養母は、その姿に相応しい力を持った異形だ。人間の世界に逃げ延び、怪我によって衰弱したとしても、人間の甘言に騙されたからと言っても、何も出来なくなるほど弱い女ではない。


「……君に何があった?」


 その疑問が脳を駆け巡った瞬間から、フィーガスは疑ったのだ。

 彼女の心の、在り方を。


「君は変わった。僕も、兄様も。これから互いの全てを知ろうと言うなら、僕らはあの晩、死んだ方が良かった。そうすれば僕らの間にあった確かな愛情は、きっと本物だっただろう」


 歪めていたシガリアの表情は、いつの間にか壊死したように変わっていた。

 否、変化しなくなったという方が正しいのだろう。

 彼女は無表情でフィーガスを見つめ、両手を軽く腹の前で組んで姿勢を正す。

 何も言わなくなった彼女から、肌が痺れるような威圧を感じ、それでもフィーガスは再度口を開いた。


「──君の憎む()()()は、君に何をした?」


 ふ、と。

 彼女は目尻を和らげた。


「…………何も」


 深海に似た、光の届かない夜空に似た、一対の美しい瞳がフィーガスから逸らされる。


「…………何もしてくれませんでした」


 意図が掴みづらい発言に怪訝な顔を返せば、彼女の瞳から涙が一筋、零れ落ちた。


「何もしてくれませんでした。与えてくれるといった抱擁も、伝えるといった愛の言葉も、何一つくれませんでした。でも長い時間が経てば、わたしの有効性を示せれば、きっとあの人は振り向いてくれると、そう信じていた」


 細い片手をあげ、ドレスの胸元を飾る鉱物に手で触れる。

 何の力も備わっていないライネリカの体では、彼女は自身の鉱物を扱うことはできない。それを分かっていながらも、フィーガスは緊張で半歩、後ろに下がる。


「わたしは、ずっと、我が義子()の幸せを望んでいました。ずっと永遠に、穏やかな時間が続くことを願っていました。……疑問すら持たずに」

「…………」

「両陛下の眷属であるわたしは、どれほど養母として振る舞おうとも、最終的には兄弟王の臣下に下る身です」


 声から伝わる感情は、徐々に波を帯びていた。細く頼りなく空気を震わせ、それでもフィーガスの胸を(さいな)んでいく。


「わたしは、わたしを求めることを、許されなかった。……シガリアという個の存在であることを、あの人だけが認めてくれた、あの人だけが、わたしの名を、わたしに呼び返してくださることが、あんなにも幸福だった」


 愛しむ言葉尻から、僅かに頬を染める表情から、彼女を支配した男への感情を如実に伝えてくる。

 愛を知り、愛に溺れる、恍惚とした浅ましい女の顔だった。

 しかしそれも、絶望による怨嗟に、飲み込まれる。


「……それなのに、……どうしてなの、わたしの何がいけなかったの。……どうしてエイロスは、わたしを愛して下さらなかったの……!!」


 激情に身を委ね、半ば絶叫した彼女に、フィーガスは愕然とする。これ以上聞いてはダメだと、脳裏で己の理性が警鐘を鳴らす。

 シガリアが深く傷ついていたのは理解できた。安寧に溺れ、彼女を蔑ろにしてきたのではないのかと、己の境遇が走馬灯のように再生を繰り返す。

 だが、一つだけ、どうしても聞かねばならない言葉が、音とならず唇を噛んだ。


 シガリアは自らの意思で、祖国を離れてしまったのか、と。



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