第百一話
「……まさか君は、……君の意思で、居なくなったわけでは、……」
疑問として伝えるべき言葉は、勇気が出ずに音を濁す。
戦乱で彼女と兄弟王は生き別れた。シガリアの身をいつも案じてきた。人間に鉱物を搾取される存在となった彼女に、絶望すらした。
負傷しやむを得ず、人間の世界に逃れねばならなかったのだと、ずっとそう思って──。
「……」
目が冴え渡るように、意識が己に戻ってくる。
そもそもあの時、異国の地である人間の世界に逃げるという、通常では考えつかない術を、わざわざ選ぶ必要があったのだろうか。
人間側からは、フィーガスの生まれ故郷に介入できない。今でこそシガリアが排出する鉱物によって可能にしているが、当時は交流すらなかった。
人間の世界は、シガリアが望んで飛ばなければ、行けるはずもなかった大地なのだ。
言葉を失ったフィーガスに、シガリアは視線を上げる。
暗闇に似た瞳には、一筋の光もない。鏡のようにフィーガスを映せば、まるで彼女の存在たらしめるように、鬱蒼とした笑みに歪む。
頬には幾筋も涙の痕をつけ、乾く前に次の涙が溢れ落ち、気が狂った女の顔だ。それでも声だけは冷静に、フィーガスの気づきを柔らかく褒める。
「そうです、フィーガス。ああ、やはりあなたは、養母の思いを汲んでくれるのでしょう。わたしはあの場から、逃げ出しました」
「……シガリア」
「エイロスが、わたしを愛して下さると、約束してくれたから」
頬を染め、記憶の中で愉悦と憎悪が入り交じる男を、媚びた声が呼ぶ。
「わたしが全てを差し出せば、わたしを認めて、愛してくださると、約束してくれたのです。わたしはあの人の信頼に応えようと、全てを差し出しました。……我が祖国の平穏すらも」
シガリアは悪びれもせず、恍惚とした表情を隠すこともなく、フィーガスに伝える。
あの戦乱を引き起こしたのは、自分なのだと。
「あの混乱がなければ、わたしはこちらには来られなかった。あの人が知恵を貸してくださったのです」
「シガリア」
「わたしの容姿は武器になるのだと、わたしの身体は戦の火種に出来るのだと、あの人が、あの人が」
「シガリア、やめろ!!」
フィーガスは真っ青な顔で一歩踏み出すと、片手で細い腕を掴んで引き寄せた。過呼吸気味に呼吸を繰り返した彼女は、引きつった笑みを浮かべ目を見開く。
理解が追いつかなかった。否、脳が処理することを拒んでいた。
自分たちは死という概念が薄い。それでも傷を負えば痛み、戦になれば悲しむ神がいる。大戦では多くの同胞が苦しみ、自分たちが住まう世界の情勢はひっくり返された。
シガリアの狂言に嘘がなく、全てが事実であるのなら。
彼女の存在は、もう祖国の誰にとっても、許してはいけないものになる。
フィーガスは力が抜け、突風をまとって白馬の姿に戻ると、がくんと膝が崩れた。前のめりになる身体をなんとか支え、再び数歩後退った彼女を見つめる。
「……わたしは、わたしを望まれたかった」
笑みの形に歪んだ顔で、シガリアは呟いた。
「神々はわたしの容姿を褒め、鉱物もろとも欲し、無数の手を伸ばしても、シガリアという個を望んでは下さらない」
シガリアがヒトの形を好んだのは、神々に好まれるからだ。
本来の体躯を押し込めた、小柄で美しい容姿は、大柄な腕の中に収まるからだ。
庇護を誘い、情欲を煽る。そうしなければ個を得られないと、本気で思っていたのだ、と。
双眸を細めた彼女の目から、新しい涙が落ちて、ドレスに染みをつくる。
「わたしが必要と、されたかったの」
フィーガスはあまりの気持ち悪さに、短く呻いて胃の内容物を吐き戻した。後退してシガリアから距離をとり、点滅する視界に小さく首を振る。
目の前にいる彼女が、自分の知る養母とかけ離れすぎている。思考が掻き混ぜられ、引き千切られそうだった。
シガリアだけが悪役ではない。
彼女の奥底を理解しなかった、安寧だけを甘受していた自分たちも、おそらく同罪なのだろう。自分たちの権力と正当性を維持するためだけに、子供の世話を押しつけた父母も、一端を担っているのだろう。
それでも、心臓が冷えて鼓動を鈍らせる気持ち悪さを、覚えずにはいられない。
彼女がどのように男と知り合ったかは分からない。ここまでくれば、そんな疑問は些事だ。
つまるところ兄弟王にとってシガリアは初めから、知らない女だったのだ。
「……やはり君とは、共に帰れない」
口内に広がる苦みを意識の外に追いやり、フィーガスは吐き捨てる。
養子の反応にシガリアは、眉尻を下げて口を閉ざし、片手の甲で涙を拭った。
「……わたしを殺すのですか」
「そうだ」
間髪入れずに答えれば、彼女は一つ、瞬く。
「それほどに、この身体の少女を愛しているのですか」
「当たり前だろう」
何の邪念も浮かばず言葉を紡ぐ。
シガリアの目を通して、叫びだしそうな己の顔が見えた。
シガリアと自分たち兄弟王は、あの二つ浮かぶ満月の晩、死んだ方が良かった。死ねば双方の間にあるものは、確かな愛情だったと他者が認めてくれただろう。
生き残ってしまったお互いは、もう二度と、あるべき姿には戻れない。
お互いが居場所を望む以上、干渉しないまま、知らない場所で生きていくことは、もう出来ないのだ。
「その子は、僕の婚約者だ。当たり前に愛おしい、僕の命と同じ人だ。……だから僕は、君を許す訳にはいかない」
フィーガスの返答に、シガリアは笑みを消す。
挑むようにこちらを睨む表情は、やはり、知らない女の顔だった。




