第九十七話
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室内には重苦しい空気が流れている。
リュグザとフィーガスはシガリアを連れて、一旦、部屋を出て行った。しかし祝賀会場には戻らず、特別国賓室に部屋を用意するという。
アスターの今の心理状態では、シガリアと同室など到底無理だと、リュグザが判断した結果だった。
彼女もそれに同意し、今はラジレイシアの護衛として部屋に残っている。
目の前のソファーでは、リンドウが涙を堪えきれず鼻を啜っていて、バラですら鼻を赤くし、片手で目蓋を擦った。
ラジレイシアは一定の間隔で、扇子を開いては閉じを繰り返す。目蓋を閉じて視界情報を遮断し、暫し押し黙った。脳内では今後の立ち振る舞いについて、数通りを考えては思考を巡らせる。
痺れを切らしたアスターが、ドレスを持ちあげ膝を折った。
「恐れながら、ラジーさま」
「……何ですの」
「なぜ、静止されたのですか。あんな、っあんな、我らが主さまの体を乗っ取った異形など、私に任せて頂ければ……!」
「頭に血が上りすぎですわ、アスター。中身が別人でも、体がネリカであることにかわりはありませんのよ」
憤る彼女を嗜めつつ、目蓋は閉じたままだ。冷静な態度と、どこか突き放すような気配に、アスターは眉を吊り上げ、己の胸に添えた拳を強く握りしめる。
「っ、どうして、そんな落ち着いていられるのですか、……どうして……ッあたしの女神が、どうなるかもわからないのに!」
アスターにとってライネリカは、命そのものだ。それはバラにとっても、リンドウにとっても等しい感情である。
訳も分からない異形に乗り移られた、可憐で愛おしい末姫。今どこに彼女の意識はあって、苦しい思いを強いられているのではないか。
そう考えるだけで、たとえ体がライネリカであっても、引き裂いてしまいたいほど激しい怒りが湧いてくる。
女神にその手で触れることを良しとしたのは、フィーガスただ一人。それ以外の接触は、魂だろうが亡霊だろうが、許せることではなかったのだ。
ぱち、と軽い音をたて、ラジレイシアが扇子を閉じる。
「……あの体は、あたくしの可憐な妹の物ですの。傷をつけることは許しませんわ」
「ラジレイシア!」
「お黙りなさい、アスター!」
従姉妹としてラジレイシアを叱責するアスターに、ラジレイシアも声を張り上げた。
扇子を振り、アスターを睨む双眸は苛烈に輝き、言葉を震わせる。
「あの子がどうなるか分からない? そうですわねぇ、冷静にしていなければ、今すぐにでもあの女を殺してしまいますもの!!」
いくらフィーガスの身内とはいえ、許されざる行為だ。シガリアという遺物の特殊性を考慮しても、許容できる範囲を超えている。
ラジレイシアとて黙しているだけで、確実に心身が蝕まれているのは事実だ。今も絶えず彼女自身の脳内には、あの女の思念が流れている。あの女が人間の男にどのように囲われ、どのような甘言に唆され、蔑められた屈辱的な情景が、絶えることなく流れるのだ。
それでも自身が正気でいられるのは、ラジレイシアはシガリアの成り損ないだからだ。
彼女が嫌悪する、人間の肉を持った餌の一つ。ライネリカとの差が、異国の女の怨嗟に取り込まれず済んでいる。
ラジレイシアは扇子で口元を隠すと、アスターから視線を逸らして、長く息を吐き出す。星を散りばめた瞳を剣呑に細めれば、アスターは歯噛みして拳を握り締め、音もなく立ち上がった。
「先ほども申したでしょう、アスター。今のあなたの主君は、あたくしですわ。あの子の体に傷をつけることは許しません。あたくしの決定に従いなさい」
「……っ……」
アスターは何事かを言いかけるも、言葉を発する前に口を閉ざす。そして片手を胸に当て、軽くドレスの裾を持ち上げた。そのまま頭を下げた後、ラジレイシアの命令に否定も肯定もせず、踵を返す。
キリノスの横を擦り抜け、部屋を出ていった彼女に、ラジレイシアは再三の溜め息を吐いて、リンドウとバラに向き直った。
「リンドウ、バラ。シガリアの件は、あたくしが預かりますわ。あなた達は適切な距離を保つよう」
「……ラジーさま……」
「絶対にどうにかして取り戻しますから、今は涙をお拭きなさいませ。……あたくしは先に参りますわ」
覇気もなく頷く二人に目を細め、ラジレイシアも背を向ける。
視線の先では、顔色の悪いキリノスが、やはり一言も発する事なく俯いていた。
あまりの消沈具合に、些か気に掛かりつつ、ラジレイシアは緩やかに近寄って小声で耳打ちする。
「……ラバル兄上さま。兄上さまは、どうぞ、アスターの動向に気を配ってくださいませ。彼女、あのままでは本当に、あたくしのネリカの体から、首を跳ねかねませんわ」
「……ラジー……、……ごめん……俺、は……」
「兄上さまに責はございませんわよ」
「……俺が……いや、俺は……護りたかったんだ、ただ……本当に」
緩慢な動作で上げたキリノスの片手が、ラジレイシアの頬に触れた。
ライネリカを大切に慈しんでいる兄だ。今回の事も、有事に備えて行動していた所で、助けに入るのが遅れたことに、責任を感じているのだろう。
ラジレイシアは首を左右に振り、兄の片手に自らの手を重ねて、表情を緩ませる。
「大丈夫、ネリカは戻って参りますわ。あたくしの妹ですもの」
「ラジー……」
すぐ目の前で、キリノスの表情が歪んだ。唇だけが、違うんだ、と息を吐き出す。
目を見開いたラジレイシアと、小刻みに震えるキリノスが言葉を発する前に、背後でリンドウが立ち上がった。
「……国王陛下と、同じだ」




