第九十六話
訝しんだ視線を向ければ、彼女は眉を顰めて扇子を再び開く。
そしてフィーガスを一瞥し、軽くドレスの裾を持ち上げ頭を下げた。
「ああ、閣下。これが神の国の作法であるなら、お許し下さいませね。我々人間とは、養母の考え方が違うのかと」
「……どういう……?」
ラジレイシアの意図を掴み損ねたフィーガスが、緩やかに瞬く。
「国の形態によりますでしょうが、国王の養母であるなら、下位の爵位の者を宛がうのが通例ですわ」
乳母と違い、王の養母というのは、非常に微妙な立ち位置だ。
例えばライネリカ第二王女のように、王位継承権が他の兄弟より弱く、加えてエイロス王妃が養母の立場であるので、それほど問題ではない。
だがフィーガスはそもそも、一国の主として君臨する実父母がいる。それにも関わらず、あまりに高位の者が養父母の役目を担うと、勢力争いで余計な派閥を生みかねないのだ。
ラジレイシアの目から見て、シガリアという女は、異国の弟王より立場が上に見える。それが正しい間柄なのかと疑問を呈したのだ。
高ぶりかけた感情が落ち着いたリュグザは、小さく首を振って女に視線を戻す。フィーガスも冷静になったのか、翼を畳んで屈めていた上体を起こした。
「……いや。確かにこちらの国ほど、上下関係は明確ではないが、それでもシガリアの立場は、それほど高位ではない」
「まぁ。でしたら、閣下。この者の言動をお許しになってよろしいので?」
あえて挑発しているらしい、蔑んだ双眸を向けるラジレイシアに、女は顔色を変える。しかし思う節もあるのか、何も言わずに唇を引き結んだ。
先ほどと同じく無表情ながら、一歩、距離をとる。そして両手を腹の前で軽く組むと、伸ばした背筋のまま静かに頭を下げた。
臣下としての礼節を心得ろと、言外に諫めたラジレイシアの思惑は伝わったようだ。女の反応にエイロス国の大女神は、口元を扇子で隠し微笑む。
「……礼を失する行為であったことは、謝罪します。ですが、……あなた方も、立場の隔たりはないように見受けられますが」
なけなしの反論に、ラジレイシアは微笑んだまま、首を傾けた。
「当然ですわ。我々はそれぞれの立場以前に、女神ライネリカ・ベルジャミンの、忠実なる『騎士』ですわよ。我々の結束、互いへの親愛は、女神がお許しになっておりますの。……あなたはどうなのでしょう? あなたの振る舞いや言動を、あなたの主神はお許しになっていて?」
指摘に女は更に言葉を詰まらせる。そしてゆっくりと顔を上げ、フィーガスとリュグザを交互に見つめた。
おそらく彼女にとって、思いもよらない疑問だったのだろう。彼女にとって兄弟王は、生まれた時から傍にいた存在だ。立場上の隔たりなど、考えた事もなかったはずである。
だがそれは、兄弟王自身の思考にも等しい。
ラジレイシアの美しい双眸が、フィーガスに注がれる。彼は戸惑った様子で体を震わせた。
「……今のシガリアには、許可、出来ない」
「……フィー……、……」
女が掠れた声で愛称を呼ぶ。しかしフィーガスは首を左右に振ると、大きく深呼吸をしてから、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「養母様。君が身体の自由を奪っているその姫は、僕の、オージオテラサス弟王の婚約者だ。僕は君に、僕の婚約者を貶める行為を許さない。……今の君の全てを、僕は許容できない」
「……」
「僕らは君の知る義子たちでは、もうない。……気が遠くなる月日の中で、君が僕らの養母様では無くなったように」
どこか愕然として、行き場のない不安が溢れるように、女はぎこちなく視線を下げる。
反論しないのは心のどこかで、似たような感情を抱いているからなのだろうか。
微かに眉間の皺を深めたリュグザは、ラジレイシアに向き直って一礼する。
「お恥ずかしながら、取り仕切って頂き、誠にありがたく存じます」
「まぁまぁ、これしきで、一国の王となるお方が頭を下げてはいけませんわ。……シガリア夫人、あなたはあたくしと共に参りますわよ。今はネリカに身体を返す気がなくとも、己が役目は果たして頂かなくては」
踏み出したラジレイシアは、扇子を閉じて軽く振った。
無表情を向ける女に、肩をすくめて目を細める。
「よろしくて、夫人? あなたは今、どこへも帰る手段がないのですわ。ですがこのまま大人しく時間を過ごせば、あなたの身体の元へは帰れますのよ。少しでも頭があるのなら、考えなさって?」
「……この体、単身では、長距離の移動は不可能、という事ですね」
「そうですわ。自分の状況がご理解頂けて?」
「…………そう、ですか。……では、ご教授願います。真実の皮を被った出来損ない」
「あら、殊勝でよろしくってよ。人間に搾取される神の汚物」
互いに罵り合う様に、フィーガスが何事か言いかけるが、リュグザが目で制した。
外野が口を出せる問題ではない。目の前にいる二人の傷を広げるだけで、今はこの場を取り成したラジレイシアの意思を、無駄にしてはいけないのだ。
それに、と。リュグザはラジレイシアの片手に視線を下げ、目を細める。
美しい真紅のドレスを後ろ手に握り締めるその指先は、真っ白に変色し震えていた。




