第九十五話
抑揚のなかった声音に、初めて感情が灯った。
それは紛れもない怒りで、彼女は掴んでいた立髪を離し、短く嘆息する。
「不愉快極まりない名です。この名を、この体に与えたのはどなたでしょう」
周囲を見渡した彼女は、一番距離が離れている、ライネリカの従者二人を見た。
いつの間にか顔を上げていたリンドウが、徐々に表情を歪めていく。バラを片腕に抱いて、もう片方の手には緩やかに形成された剣が、鋭い煌めきと共に弧を描いた。
リンドウが『騎士』として扱う、弓に似た不思議な形状の片手剣。透き通るように美しい刃に、ライネリカの姿をした女の様相が映り込む。
「僕らの娘を、返してください」
震える声で訴える彼の、普段は温厚な瞳が苛烈に輝いた。
「娘……ああ、あなた達が、この体の母体となったのですか。血の提供を感謝いたします。それでも、エイリスなどとふざけた名前は、捨ててください」
「僕らの娘に、愛ある名を授けて何が悪いのですか」
「あの男の名の、女性形ではありませんか。わたしを謀り、辱め、永遠の恥辱を与えるあの男の」
彼女が一歩踏み出した。
フィーガスは悲鳴混じりの声をあげ、痛む体に鞭打って立ち上がり、翼を広げてバラとリンドウの所まで下がっていく。
上体を低く保ち蹄で床を打ち鳴らし、敵意ある目で彼女を睨みつめた。
「この二人に近寄るな!」
「なぜ庇うのでしょう。理解に苦しみます。フィーガス、あなたは王。相応しい立場が用意された存在なのです。わたしと共に帰りましょう。人間など、歯牙にもかける必要がありません」
「っ……!」
冷めた目が、空洞のように虚な目が、フィーガスを見つめている。
この女は、誰だ。
リュグザは女の細い肩を掴み、無理やり振り向かせて顔を覗き込む。
シガリアは確かに、養母として厳しい女だったが、このように他者を貶める発言をする異形ではなかった。人間に対して情などなくとも、全ての相手を通り一辺倒に、過小評価するような女ではない。
「……お前は誰だ」
溢れて落ちたリュグザの声が、部屋の中へ反響する。
彼女の真っ直ぐにこちらを見る目が、少しの感情の機微もなく動く唇が、ただ声帯を震わせた。
「何を言っているのです、リュクサオル。あなた方の養母を、忘れたのですか」
忘れたことはない。
忘れたことはない、のに。
「お前は、誰だ?」
目の前にいるソレは、愛した養母の皮を被った、醜悪だった。
激情に踏み出しかけたその時、キリノスやアスターの後方から、強く扉が叩かれる。驚いたキリノスが短い悲鳴をあげ、全員の視線が注がれると、返事を待たずに扉は隙間を空けた。
まずい、と脳裏に焦りが駆け巡る。人払いをかけていたはずだ、このような状況を見られては、ライネリカの立場を守れない。
瞬時に体ごと振り返り、女を背後に隠したリュグザは、目を見開いた。
「……まぁまぁ、皆さま、お揃いで。困りましたわね」
華やかだが、明らかに怒気を孕んだ声が、室内に響き渡る。
扇子で口元を隠しつつ現れたラジレイシアは、リュグザの後方を見やり、次いでアスターに視線を向けた。
「アスター。こんな場所で『騎士』の剣を使うのはおやめなさいな。怪我をしては元も子もなくてよ」
「っ、しかし、ラジーさま、主さまが……!」
「今、この場であなたの主君はあたくしですわよ、アルヴィア・“アスター”・ロイズ。異論は我らが主、ライネリカ・ベルジャミンが許しませんわ」
「ッ……申し訳ございません、御心のままに」
鋭く切って捨てられ、アスターは肩を震わせる。しかしそのままラジレイシアに睨まれ、慌てて宙に浮かぶ針を消すと、膝を折った。
首を垂れる仕草は、紛れもなく生粋の騎士だ。息を詰めて視線を彷徨わせたキリノスに、ラジレイシアは微笑んで、視線をリュグザに戻す。
「まぁリュグザ殿下。発言のご無礼をお許し下さいませ。このような場所で時間に取られていてはいけませんわ。殿下には祝賀会場を取り仕切って頂かなくては。皆、訝しんでおられますわよ。早々にお戻りになりませ」
「……ラジレイシア嬢、ですが」
「心配などよろしくってよ。この場はあたくしが預かりますわ」
リュグザの横に立ったエイロス国元第一王女は、目を細めて、妹姫と同じ容姿をした女を見つめた。
相対した女は再び相貌へ憎悪を滲ませ、ラジレイシアに一歩踏み出す。しかしそれ以上、足を進めることはなく、しかしそんな自分に驚いた様子で、僅かに瞠目した。
「あたくしはあなたですわよ。危害を加えられると思って?」
「…………あなたは、わたしを得るための出来損ない、でしょう」
「まぁ、面白い言い方をなさるのね。あなたが産んだ体ですわよ」
「人間が勝手に、わたしを孕ませたのです」
「あらあら言い得て妙ですわ。勝手に孕ませた子供が疎ましいなら、さっさとあたくしの妹を返しなさいな」
哀れみすら含んだ声音に指摘され、女は言葉を詰まらせる。ライネリカの身体を乗っ取り顕現した彼女には、相当、痛烈な嫌味だろう。
先ほどまで女の優位であった空気が、ラジレイシアの言動によって引き戻されていく。
「まぁ、リンドウ。あなたも武器をお仕舞いなさい」
「……承知、しました」
リンドウも掲げていた片手剣を空気に溶かし、代わりに両腕でバラを抱きしめる。
バラは大人しく夫の腕の中で、静かな瞳でラジレイシアを見つめ返した。
「それにしても、リュグザ殿下? 神の国では、国王や女王がいるようですが、上下関係は曖昧でして?」
ふいに、唐突な話題転換をしながら、星をちりばめた瞳がリュグザに向いた。




