第九十四話
アスターに連れられて来たのは、晩餐会場に隣接された休憩室だった。
扉を開け放ったキリノスが、室内の異様な気配に、たたらを踏んで戸惑いを見せる。様子を背後で見とめたリュグザは、息をのんで二人の腕を掴んだ。
「リュグザ、さ」
「二人とも俺の背後に。俺が良いと言うまで、一歩たりとも前に出てはいけません」
半ば強引に後方へ押し除け、数歩前に踏み出す。その間も視線は逸らさず、真っ直ぐにソファーの前に立つ女を見つめていた。
絨毯に伏せ、三人がけのソファーに頭を乗せた白馬が、ノロノロと顔を上げてリュグザを見る。そして目が合った次には、かすかに嘶いて翼をはためかせた。
「兄様……!」
リュグザを呼ぶ弟に、女が反応して、ゆっくりと視線を向けてくる。
様相はライネリカのソレだ。姿も晩餐会場で見た時と変わらない。
しかしまるで、使用人のように背筋を伸ばす様は、普段の彼女と掛け離れた洗練さを醸し出す。そしてその気配は、まさしく人智を越える存在だった。
部屋の奥で、顔色を失ったバラとリンドウが、床に額を着きそうなほど平伏している。リュグザの背後にいる二人も、恐れ慄いて頭を下げた。
「……リュクサオル? ……ああ……変化が上手く、なりましたね。見違えました」
ライネリカと同じ声で女は、しかし表情筋が壊死したように無表情のまま、リュグザを、━━否、オージオテラサス兄王としての名を紡いだ。
それだけで状況を理解し、絶望のまま目眩がして、リュグザは唇を戦慄かせて激昂する。
「あの子の魂をどこへやった、シガリア……!!」
大股で近寄り、思わずドレスの胸元を掴み上げた。小さな体は簡単に踵を浮かせ、彼女は眉一つ動かさずにリュグザを見据える。
「ああ、あなたは血を分けたのですね。無作法に申し訳ありません。ですが、どこへやった、という疑問符はお門違いでしょう。コレはわたしなのですから」
抑揚の乏しい声音が、リュグザの発言を嗜めた。
酷く神経を逆撫でし、同時に泣きそうなほど懐かしい声に、リュグザは続く言葉を失って首を左右に振る。
目の前にいる女は間違いなく、自分たち兄弟の養母だった。
なぜこんな事態になっているのか、皆目見当もつかない。だが以前より薄々、こうなるのではないかという懸念はあった。
ラジレイシアもそうだが、彼女ら姉妹姫は、出生の段階から人間と異なる。その事実がどれくらいシガリアの介入を呼び込むのか、正直に言えば未知数だった。
シスボイリー国へ入国してから、ライネリカの心理状態はかなり揺さぶられていたはずである。
心を繋ぐ糸が切れてしまっても、手繰り寄せる力もないほどに。
彼女はやんわりとリュグザの腕を退け、足元で項垂れたままのフィーガスに視線を向けた。
「リュクサオル。フィーガスの怪我が酷いのです。あなたなら見てやれるでしょう」
「…………」
「この体は不便ですね、早急に身体を回復させ、元に戻らなければ。あなた達を護る術さえない」
平坦な声音に、ざわざわと寒気が立ってくる。
喜ばしい、など、口が裂けても言えなかった。
「シガリア、……っシガリア、その子を返してくれ。……僕の大切な婚約者なんだ……」
ヒューヒューと嫌な音を混じらせながら、フィーガスが彼女を見上げる。自己修復がまだ追いついていないのか、体が小刻みに痙攣していた。
彼女は目を細め、軽くフィーガスの立髪を撫でる。
「兄弟揃って、可笑しな事を言いますね。これはそもそも、わたしです。返すものなど、何もありません」
「違う、ライネリカは、君じゃない……! 頼む、シガリア。その体は、君のものじゃない。僕の婚約者に返してくれ……!」
「……婚約者、ですか。それも得てして妙な言い回しです。……リュクサオル。人間の世界では、糧と婚約を結ぶ慣習があるのでしょうか」
「かっ……!?」
声を上げたのは、アスターだ。リュグザは即座にキリノスに目配せし、妻を抑えるよう指示を出す。
キリノスの片腕に引き寄せられたアスターが、首を振って一歩、踏み出した。
「糧、ですって……!? 大人しく聞いていれば、あたしの女神を食糧呼ばわり!? 冗談じゃないわッ!!」
「ロイズ騎士団長、だ、ダメっス、落ち着いて……!」
「許さないんだから、あたしの主さまを……!」
部屋の四方を囲むように、赤黒く発光する無数の針が、次々と出現する。敬愛する主君を貶され、アスターは顔を赤くし叫んだ。
その様子を冷めた表情で見つめた女は、すぐにリュグザへ視線を戻す。
「リュクサオル。あの娘との関係は?」
「……俺の妻です。そしてシガリア、お前が乗っ取った、我らが女神の『騎士』だ」
『騎士』の単語に、彼女は僅かに表情を歪ませた。
「……そうでしたか。……リュクサオル、あなたならもっと、良き相手に恵まれたでしょう。国へ帰ったら、海神王陛下にわたしが進言致しましょう。……アレではあまりにあなたの行末を案じます」
何の感情も浮かんでいないながら、本心からの言葉だと、手に取るように分かってしまう。
彼女はそもそもこういう性格なのだ。
リュグザとフィーガスの幸福を案じ、最善を尽くそうとする。以前までであれば、そこに兄弟王の意志が存在しなくとも、たいした問題ではなかった。
彼女だけが我が身を守り、明日を与える全てであったから。
「シガリア。我が君のみならず、我が妻を侮辱する発言は慎んでください。俺は彼女以外の女など必要ありません」
「っそうだ。兄様と同じく、僕にはエイリスが必要だ。だから頼む、シガリア。僕の」
続けようとした言葉が、不自然に途切れて、白馬の体躯が僅かに浮いた。
呻き声を上げた弟の立髪を、細い片手が掴んで、視線の高さまで顔が持ち上げられる。
「……なんて疎ましい呼び方なのでしょう。おやめなさい、フィーガス。その名はあなたを汚すだけだわ」




