第九十二話
▽ ▽ ▽
フィーガスの目の前で、ライネリカの体が傾いた。床に倒れ伏そうとする彼女を、懸命に体躯を伸ばして受け止める。
シガリア鉱物によって力を膨張させ、無理やり本来の力を引き出した体が、激しい疲労と痛みに悲鳴を上げた。ともすれば意識を失いそうで、フィーガスは点滅する視界に、小刻みに顔を振る。
ライネリカが突如として走り出し、追いかける為に空間を捻じ曲げた弊害だ。
フィーガスが行ったのは、シガリアが排出する鉱石の、従来の使い方。『神の国』の住人である自己能力を回復させ、一時的に解放する使い方だ。
生まれ故郷で使用すれば、強力な肉体強化になるが、ここはフィーガスにとって異国の地である。
そもそも環境に適応出来ていない体躯には、強烈な負荷にしかならない。当然、空間移動などしようものなら内臓が潰れて、暫く使い物にならないのは分かっていた。
現にフィーガスの周辺は、遅れて空間から吹き出した血液を、徐々に撒き散らし始めている。
それでもライネリカに傷をつけられるより、何十倍も耐えられた。
あまりの痛みに呻きながら、己の上に倒れたライネリカを、白い翼で包み込む。
「ライネリカ、……ライネリカ、しっかり……、しっかりしろ、目を覚ませ、ライネリカ……!」
声をかけるが彼女からの返答はない。
ライネリカの細い腕が、視界の端に投げ出された。彼女を覆う衣服越しに呼吸音が聞こえるので、生きているのは分かるが、気配が緩やかに遠のいていく錯覚がする。
「起きてくれ、ライネリカ。起きろ、頼む、起きてくれ、目を覚ませ、ライネリカ、っライネリカ、──ああエイリス!! 僕の声に応えてくれ!!」
絶叫する声と同時に、背後の扉が蹴り開けられた。
刹那、逃げようとしていた男の体が、白い糸に吊り上げられて空中に浮く。首に巻きつけられ呼吸を塞ぐそれに、男は声を上げてしがみ付いた。
「ネリカ!!」
血相を変えて膝をついたキリノスに、フィーガスは頭をもたげてライネリカを預ける。彼は末姫の口元に手の平を当て、呼吸を確かめる仕草をすると、強く片腕に抱きしめた。
長く安堵の息を吐き出し、優しく頬を寄せてから、顔面蒼白で同じく両膝をついたラジレイシアへ、慎重にライネリカを抱えさせる。小さな体を掻き抱いた姉姫は、泣きながら名前を呼んで首元に顔を埋めた。
全員の前に躍り出たリンドウが、目を見開いたまま、空中に吊り上げられた男を凝視する。
「ッどういう状況なんですの、これは! どうして我が夫があたくしのネリカを、このような目に合わせているんですの!?」
ラジレイシアの甲高い悲鳴に、宙吊りの男が瞠目する。
フィーガスも仲間が駆けつけてくれた安堵で、ようやく脳が冷えて冷静になった。
改めて見た男の顔は、初めて見る顔だ。
ライネリカが対峙していた時、相手を知己の間柄であるかのように振る舞っていたが、どうやら義兄であったらしい。
キリノスの糸によって首を絞められ、赤黒い顔をしている男は、声も出せないのだろう。泡を飛ばして首を左右に振った。
「……ラバル殿下、これは、っこの状況は、どのように釈明して頂けるのですか……!?」
顔は前を向いたまま、リンドウが声を震わせる。
フィーガスは気力を振り絞って、肢体を自力で回復させつつ、霧がかる視界でキリノスを見やる。彼は青白い顔で俯き、片手を軽く振ると、男の体から糸を解いて床に叩きつきた。
激しく咳き込みながら転がる男を前に、キリノスが立ち上がってリンドウの隣に並び立つ。
「……ごめんな、リンドウ」
「姫様を護って下さっていたのでは」
「ごめん、でもこの状況なら、絶対に這い上がって来られないから、どうか許してほしい」
二人の間でしか分からない事情が、会話の内容から伺わせた。
一体何を、そう問いかけようとした声は、廊下の騒々しさで掻き消される。
キリノスは白いローブをかぶり直し、足を踏み出して転がる男の襟首を片手で掴むと、床を引きずって廊下に放り投げた。
「お疲れさんです。エイロス国第二王女殿下に、不貞を働こうとした族っス。リュグザ殿下の御前に」
やってきたのはシスボイリーの衛兵たちだ。彼らは男を羽交い締めにし、猿轡のように縄を通して押さえつける。叫ぼうとした声は喉の奥でくぐもり、男はそのまま周囲を睨み上げた。
軽々とライネリカを横抱きにしたラジレイシアが、眠る妹姫をバラに託し、キリノスの横に進み出て衛兵たちを見据える。
「デージル公爵が妻、ラジレイシア・ディアモリスですわ。参りましょう。如何様にも発言いたしますわよ」
王家の代理としての威厳を保ちながら、激怒する彼女の威圧に、衛兵たちが気押され半歩身を引いた。
皮膚を震わせるほどの敵意は、夫に向けるようなものではない。武力によって統制を保ってきたシスボイリーの兵であっても、感じた事のない恐怖だった。
怖じ気付く彼らをキリノスが促して、男を引きずっていく。
床に倒れ伏したままのフィーガスがバラを見ると、彼女の腕の中で、ライネリカの体が微かに痙攣した。
「ライネリカ……!」
「……ぅ…………」
痛む体に鞭打って膝を立たせ、よろけつつ体躯を起こした視線の先で、彼女が緩やかに目蓋を開ける。そして周囲を見渡した後、フィーガスに目を留めて、僅かに見開いた。
フィーガスの視線の先で、星空を散りばめたような美しい瞳が、徐々にその瞬きを失っていく。
「……フィー、ガス……?」
それはまるで、彼女をライネリカたらしめる灯火が、吹き消されるような瞬間だった。




