第八十七話
扉を通るために一度人型になったものの、すぐに白馬本来の姿に戻ったフィーガスは、絨毯の上に伏せて体躯を落ち着かせた。
ライネリカが近くの椅子に腰を下ろせば、彼は翼をたたんで軽く息を吐き出す。
「……レディ」
「はい」
「少し、僕の背に乗ってみないか」
「……………………へ?」
ライネリカはフィーガスの背を見つめ、油の足りない器具に似た動作で、再び白馬の瞳を捉えた。
「な、何をおっしゃっておりますの、淑女が紳士の背に乗るなど……」
「ああ、そこは動揺してくれるのか、安心だ」
「……うっかり馬扱いした事を、根に持っていらっしゃいますのね」
半目で睨めば、フィーガスは喉の奥で笑う。しかし笑みはすぐになりを潜め、ライネリカの相貌を見上げた。
「……レディ、少しだけ、未来の話をしようか」
「未来の、ですか?」
「そうだ。君が、……僕を、家族になる人だと言ってくれて、嬉しかったから」
第三皇子に糾弾され、叫び返した言葉が頭に反芻する。ライネリカは、微かに表情へ浮かぶ照れ臭さを誤魔化すように、片手を頬に当てて笑みを溢した。
「わたくしはフィーさまの婚約者、ですもの」
「…………うん。……でもな、レディ。この一連の騒動で僕の考えは少し、揺れ動いてしまっている」
言わんとする事を掴み損ね、目を瞬かせる。
彼は絨毯を擦ってライネリカに寄り添い、白い体躯をドレス越しに彼女へ押し付けた。
生物学上の馬にしては低い体温が、布を通して伝わってくる。ライネリカが指先で立髪に触れれば、白馬は嫌がる素振りもなくライネリカを見つめていた。
「僕は、ラインギル第一王子殿下の言う通り、君の全てを奪っていく侵略者だ。君を手放すのは惜しいと思う反面、僕ら兄弟の悲願が達成された後、君と婚約関係のままで良いのか、迷っている」
「……わたくしと、すぐには婚姻出来ないから……ですの?」
「そうだ。君たちの言う『神の国』に連れていくには、君は人間であることを辞めなければならない」
シスボイリー国が『神の国』へ領土を広げようと画策し、人を派遣できているのはひとえに、シガリア鉱物を使って多くの発明をしているからだ。
だが根本的にフィーガスの故郷は、人間が足を踏み入れられない、適応不可能な大地。だからこそ未開の地であるし、生身の人間が迷い込めば、向かう先には生命の終わり以外、存在しない。
ライネリカとて、それは理解していた。
フィーガスの言う通り今のライネリカでは、彼と共に旅立つことは出来ない。
「君が死んだら、君の魂を導いて帰ることは出来る。僕は神の末席として、それを許されている。君が生をまっとうした後に、君を迎えに行けばいいんだと、漠然と思っている自分がいる」
「……」
「だがこの先、君を一生、死ぬまで僕に縛り付けていることが、果たして正解なのだろうか」
国母シガリアに打ち勝ち、エイロス国が滅んだら。
ライネリカは、どのように生きていくのだろう。
ベルジャミン王室は解体され、帰る城もなくなり、シスボイリー国へ吸収される予定である小国の姫。ライネリカは王族の血が一滴も流れていない為、貴族社会から離れる絶好の機会でもある。
バラとリンドウの嫡子として認知され、三人で暮らしていけたなら。今まで生きてきた中で一番の幸福だろう。
しかしフィーガスと婚約関係のままでは、ライネリカは天命が尽きるまで独り身という事になる。
それを良しとできるのかと、フィーガスは言うのだ。
「……君の事は、男女の情かは分からないが、特別な人だとは思っている。……嫌な言い方をしてすまないが、ジャダルに襲われたのが君の姉君であった事を、心の底で安堵したくらいには、君は僕にとって重要な位置になりつつある」
「フィーさま、それは……」
分かっている、と彼は声音を苦く揺らす。
「それでも、君でなくてよかったと、思ってしまったんだ。……だから、君の魂を最終的に迎えに行くからと言って、婚約している間……他の男の影を追いたくない」
それは恐らく彼が口にした、ライネリカに対する最も直接的な感情だった。
黒曜石に似た、吸い込まれそうな瞳を見つめ返し、ライネリカは口を閉ざす。
フィーガスが抱える感情に見合うほどの想いは、ライネリカの中にはまだない。かといって、彼の情が負担だとは思わないし、そういった意味での侵略を拒絶するほど、フィーガスに対して嫌悪感はもうない。
すぐ答えが出せないのは、不義理でありたくない、ライネリカの意識の表れだった。
ライネリカの沈黙を、自己の中で解釈した彼は言葉を続ける。
「…………全ての事が終わったら、……兄様は、君をそのまま僕の婚約者として、未来の王妃として、国に迎えるべきだと思っている。……僕も出来れば、そうなって欲しいと思う。……それでも君の全てを奪う侵略者として、最後に残る自由くらいは、君に返したいと思っている」
フィーガスの言葉に強制力は伺えない。
彼は自らの意思表示をした上で、ライネリカに選択肢を残してくれている。
暫く白馬と見つめ合っていたライネリカは、表情を微かに歪め、両手を胸の前に組んだ。
「……少し……考えるお時間を、くださいませ」
「……もちろんだ」
彼の声が揺れたのは、ライネリカが拒絶しなかった安堵だろうか。感情を引き延ばし、見てみぬふりをしようとする落胆だろうか。
ライネリカは己の両手に視線を落とし、小さな手の平を見つめて考える。
自分はこの先、どのような未来を、思い描いていいのだろう。
もうここで、応えを決めてしまえばよかったのだ、と。
いずれ後悔する瞬間が訪れる事を、その時はどちらも、考えすら及んでいなかったのだ。




