第七十七話
振り返った先で、第三皇子が唇を戦慄かせる。
「エイロス国王陛下より、貴女がいかに、理不尽な婚約騒動で心を痛めたか聞いている。それなのになぜ、貴女はその男に気を許しているのだ」
フィーガスを射殺さんばかりの血走った目が、食い入るようにこちらを見ていた。
第三皇子からしてみれば、確かにライネリカの心変わりは不可解だろう。それはおそらくエイロス国王夫妻も同様に、なぜ末姫が家族と距離を置き始めたのか、理解に苦しんでいる。
「……話し合い、理解を深めているから……ですわ。彼は婚約者さまです、互いを知ろうとする前に、種族が違うからと切り捨てるのはいけないと、そう……思いまして」
フィーガスが意外そうな顔でライネリカを見下ろした。
自分の境遇に立ち向かう覚悟を決めたからだ。そう馬鹿正直に話す内容にもいかず、無難な解答だったと思う。何か粗相をしただろうか。
目を瞬かせるライネリカに、彼は緩やかに相貌を崩すと、長い指先でそっと短髪を撫でた。
二人の様子を唖然とした表情で見つめた第三皇子が、憤って肩を跳ねさせる。
「ッそんなはずがあるか! 貴様が姫に無理を強いているのだろう! 泣くほど嫌がって、塞ぎ込んでいたと聞く。そんな幼い姫を執拗に追い込み、懐柔しただけの分際で!」
フィーガスに対する紙のような敬意も、今やすっかり破り捨てられ、彼は声を張る。
突然の事態に、様子を伺っていた兵士たちが流石に狼狽えた。第三皇子に不敬とならぬよう、気を配りながら宥める彼らを、男は片手を振って退ける。
「何が神の国との交流だ。リュグザの口車に乗せられ、ライネリカ王女殿下という餌に食いついた、下劣な侵略者が……! 貴様は彼女の何もかもを奪っていく族だ。彼女を愛する家族からも、国からも、その崇高な運命からも!」
僅かにフィーガスが顔を歪ませた。ライネリカを引き寄せ、片腕に抱き締める。顔を向ければ、誰かの帰りを一人寂しく待っているような、子供に似た表情をした婚約者と目があった。
ライネリカは彼に寄り添い、目を細める。
そして第三皇子を見据え、眉を顰めつつ口を開いた。
「恐れながら、ジャダル第三皇子殿下。フィーガス弟王閣下の御前、いささか礼を失しておりますわ」
「なぜ庇う? 貴女は本当は嫌なはずだ。この男が貴女に何をした? 国の為に立派に死ぬ貴女を、侮辱したのだろう?」
視界の端で、エイロス国王夫妻が狼狽える。
「貴女の心根を、俺は心底美しいと思う。国の為に働き、国の為に死ぬ。王女の鏡だ。それをこの男は侮辱し、貴女の存在を否定した。そうだろう、ラヒューレ殿下が教えて下さったぞ、貴女はエイロス国存続の為に、死ぬために生まれてきたのだと」
「…………」
思わず目を見開いた。フィーガスに触れる体が震える。恐怖ではなく、怒りによって。
頭の中で、何かが爆ぜる音がする。
周囲の音は何も聞こえない。
聴覚に侵食するのは、聞いてはならないと理性が訴える、ドロリとした本性の囁きだった。
「可哀相な姫だ。その為に生かされているのだろう? 我が儘になるべきだ。耳を塞ぐべきだ。貴女はそれができるだけの価値がある。俺は貴女の価値に寄り添えるぞ。その男は貴女を傷つけるだけだ」
「……違いますわ」
「違わないだろう。貴女の居場所を侵略し、全てを奪っていく男だぞ。なぜ気がつかない? 貴女も俺と同じく、その男が持ち込んだあらゆるものに、毒されているだけだ」
「違います」
「その男が貴女に何を与えてくれる? 同じ人間でもない、ただの粗雑な馬なんぞに!」
「っおやめくださいませ、無礼ですわ! フィーさまはわたくしの婚約者です、これ以上、わたくしの家族となる方を貶める発言は、お控えなさってくださいませ!!」
あまりの言いように、流石に声を荒げて鋭く切り捨てる。しかしライネリカの様子を、ただの強がりだと思っているのか、第三皇子は鬱蒼と笑って目尻を緩ませた。
「家族? その得体の知れない化け物がか? 失笑ものだ。その男の隣にいた所で、貴女の居場所は、死する以外のどこにもないだろうに」
室内は一瞬、全てを無に帰す静寂に、包まれた。
「ッ待ってアスター!!」
アスターに蹴り付けられた第三皇子の体が、壁際まで吹き飛ぶ。兵士たちの視線にも止まらぬ速さで、ドレスの内側に仕込ませていた短剣を引き抜き、その喉を突き破ろうとしたアスターを、ライネリカが叫んで静止させた。
針一本ほどの隙間を開け、皮膚の直前で静止した鋭利な切っ先に、第三皇子は瞠目して呼吸を止める。
全ての感情が削ぎ落とされた顔で、第三皇子を見据えた彼女は、構えたまま短剣を下ろさない。
ようやく事態を把握したシスボイリー兵だが、恐ろしいほどの殺気に気圧され、一歩も動けなかった。
ライネリカは胸を撫で下ろし、眉間の皺を深める。
「…………アスタロイズ妃、わたくしは大丈夫ですわ。……剣をお納めくださいませ」
主君の一言に、アスターは無表情のまま短剣を下ろした。
壁を伝い、その場に尻餅をついた第三皇子を、感慨のない瞳で見下ろす。次いで酷く顔を歪ませると、短剣を男の前に放り投げた。
「…………自分の立場に感謝することね、ジャダル第三皇子。……そうでなかったら、今すぐに、原型も留めないほど刺し殺してあげる」
低く吐き捨てたアスターは、恐れて竦むシスボイリーの屈強な兵たちを一瞥し、優雅な動作でライネリカの側に持ってくる。
そして彼女はエイロス国王夫妻に視線を向けた後、部屋を見渡して目を眇めた。
「あたしには分かんないわ。娘がここまで言われて、何も言えない親の心境なんて。ごめんなさいね」
「…………アル……」
「じゃあね、エイロスの王さま、王妃さま。……行きましょ、ライネリカ王女殿下」
ライネリカは緩慢な動作で首肯し、アスターが兵士に開けさせた扉を見つめる。
大きく息を吐き出して顎を上げれば、今度こそ決別の意味も含めて、エイロス国王夫妻へと背を向けた。




