第七十二話
時間がない状況を打破するために、アスターが提案したのは、ライネリカとラジレイシアを入れ替える事だった。
姉妹姫は身長もほぼ等しく、顔の造形も同じだ。髪の長さの違いをボンネット帽でうやむやにし、第三皇子の前に姿を見せたのである。
エイロス国王と王妃は、突発的にライネリカとラジレイシアを見分けられない。普段と違う格好をしていれば尚更だ。
ただ予定と違ったのは、ラジレイシアが一人で行動した事である。
本来ならリュグザかアスター、どちらかと特別国賓室に向かう予定だったのだ。たとえリンドウと同じように引き止められても、皇太子と皇太子妃であれば、如何様にも口八丁手八丁、ライネリカが到着するまでの時間稼ぎができる。
それを彼女は、土壇場で拒絶したのだ。
「あそこで渋っては、ジャダル殿下を取り逃がしますわ。なのでリュグザ殿下には申し訳ありませんでしたが、あたくし一人で行きましたの」
姉姫の思惑通り、第三皇子の理性は脆くも決壊した。
危ない綱渡りであった事は事実だ。ライネリカとフィーガスが、第三皇子の妃をなんとか誘い出し、あの場に連れてくるのが少し遅かったら。そう考えるだけでライネリカは腹の奥が熱くなる。
険しい顔でドレスを握りしめる妹姫に、ラジレイシアは片手を伸ばして頬に触れた。
「あたくしが代わって、良かったですわ。もし……あの男の手が、あたくしを襲ったようにネリカに触れていたら、あたくし、あの男を殺してしまうもの」
「…………お姉さま」
「あたくしだけではないわ。リンドウも、バラもそう。アスターやリュグザ殿下、ラバル兄上さまも、同じでしてよ」
親指の腹で涙の痕を撫でた彼女は、妹姫を安心させるように笑みを深める。
力強い瞳だ。ライネリカの為ならどんな事も厭わない、そこに確かな誇りを持った瞳だった。
応えようと口を開いた刹那、扉が強めに叩かれて肩を跳ねさせる。
バラを三人掛けのソファーに下ろしたリンドウが、警戒しつつ扉に近寄って返事をすると、警護兵が半分扉を開けた。
「キリノスです。リュグザ殿下より言伝を持って参りました。入室を許可頂いても?」
「どうぞ」
いつもより早口で、焦燥を滲ませる声音に、ライネリカはすぐに返答した。兵士に頭を下げてから体を滑り込ませた彼は、扉が完全に閉まってから、大きく体を震わせて、ソファーに座るラジレイシアを抱き上げる。
短く声を上げつつ、踵が浮いた状態で兄にしがみ付いた彼女は、優しく腕を叩いて苦笑を零した。
「まぁまぁ、兄上さま。あたくしは大丈夫で」
「大丈夫なわけがあるか……!」
先ほどと同じく返そうとした言葉を、キリノスの声が遮る。
キリノスの呼吸音が、小刻みに揺れていた。何かを堪えるように、吸っては吐いてを繰り返し、細い背中を優しくさすって、ラジレイシアが腕の中にいることを確かめる。
「……お前が、最善に動こうとしたことは、知ってるさ。ラジーは、そういうヤツだもんな。だけど、っだけど、リュグザ殿下から、お前が一人で着いて行ったって、聞いて、……っ聞いて……!」
上手く感情を吐き出せない兄に、ラジレイシアが困惑気味に口を噤む。
「…………良かった」
「兄上さま……」
「本当に良かった。無事で良かった。……なぁ、ラジー。お兄ちゃんをあんま心配させないでくれ。お前だってネリカと同じくらい、俺の大事な妹なんだから。……ちゃんとお前を愛してる誰かを、忘れないでくれ」
何度も、何度も。キリノスの片手が、あやすようにラジレイシアの背を優しく叩いた。
抱擁されたままの姉姫は、次第に眉を寄せ、奥歯を噛み締める。
彼女は強い。
度胸もあり、逆境に立ち向かう力もあり、己の立ち振る舞いを良く心得ている。物理的に男を跳ね除ける強さも、精神的に悪意に屈しない強さも、ライネリカが乞い願う逞しさがある。
だがラジレイシアは超人ではない。
力で捩じ伏せられ、襲われそうになって、殺されかけたことに、何の傷も付かないわけがないのだ。
ひくりと、彼女の喉が震える。瞬きをするまいと溜まった涙が、堪えきれずに頬を流れていく。
「……あ、……に、うえ、さ…………っ」
声が溢れる。
「……っ怖かったわ……、でも、っでもそれ以上に、あたくしの、ネリカを傷つけられたことが、許せなかった、……ネリカは可哀そうな姫なんかじゃ、ありませんわ! それを言い返せないのが、悔しくて、悔しくて、腹が立って、……怖かった、……本当は、怖かったんですの……!」
ラジレイシアが恐怖に震える様を、ライネリカはおそらく、初めて見た。
胸がつかえて、空気を上手く肺に取り込めなくて、息苦しくて、どんどん腹の奥が熱くなる。それなのに脳は急速に冷えて、脈拍だけがこめかみから大きく聞こえるようだった。
何かが胸の中心で、爆ぜる音がする。
傷つく母と姉の姿に、ライネリカは静かに立ち上がった。扉の前まで行くと、再び無遠慮に叩かれる。短く返事をすれば、護衛兵によって僅かに押し開かれて、人型のままのフィーガスが顔を見せた。
ライネリカの相貌に、彼は驚いた顔で動きを止める。
キリノスがラジレイシアを抱きしめたまま、廊下から見えない位置まで下がった事を、視界の端で見届け、ライネリカはゆっくりと扉を開け放った。




