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第百十話




 緩慢な動作で振り返ったフィーガスに、ラインギルが言葉を詰まらせる。


「っ閣下、妹の様子は……」

「変化はない。相変わらず、ずっと部屋にこもっている」


 抑揚に乏しい回答に、ラインギルは落胆し肩を落とした。

 シスボイリー国でフィーガスと一度別れたものの、彼はリュグザが破壊した宮殿を修正した後、すぐにエイロス国へ飛んできた。

 ライネリカが心配だったのだろう。長期滞在の許可を求めた彼に、事情を聞いたラインギルは快く承諾し、客間の一室を提供している。

 室内ではフィーガスの部下である白装束たちが、音もなく動き回り、彼の日常の世話をしているようだった。

 フィーガスは一呼吸置いた後、突風を纏い人型に変化し、ラインギルにソファーへ座るよう促す。

 一礼した第一王子は、足の低いテーブルを挟んだ向こう側へ、静かに腰を下ろした。


「……フィーガス弟王閣下。父よりほぼ全権を譲渡するよう取り付けました」

「代替わりまではいかなかったか?」

「ライネリカが今の状態で代替わりをするのは、あの子の状態を鑑みると心配なのだと、母が申したのです」

「…………そうか。まぁ、妥当な判断だろう」


 足を組んで肘置きに片肘を置き、疲れた表情を見せるフィーガスの前に、白装束の一人が湯気の立つ紅茶を置いていく。

 バラが視線を巡らせると、食事用のカートが部屋の隅に寄せられていた。城内を好きに動いて良いと許可を出したので、給仕室から持ってきたのだろう。

 シガリア鉱物の加工品で出来たティーポットから注がれる紅茶は、温かさを失わない。

 ラインギルの前にもカップが置かれ、王子は唇を引き結び視線を落とした。


「リュグザも今、シスボイリー国で王位継承に向けて動いている。その前におそらく、ラバル第三皇子の凶兆が届くだろうな」


 頬杖をつきつつカップを手に取り、行儀悪くも優美な仕草で紅茶を飲むフィーガスは、そう言って目蓋を伏せる。

 バラやリンドウも出立前に聞いてきたが、キリノスは本格的に、ラバルとしての自分を亡き者にするべく動いているようだ。

 リュグザの膝下なら、如何様にも生死を偽れる。現にラバルの存在はエイロス国へ巧妙に隠されているのだ。亡骸さえ戻らない状況に持っていければ、彼は上手くやれるだろう。

 険しい顔で頷いたラインギルが、僅かに眉を下げた。


「君たちは仲の良い兄妹だったと聞いている。……こんな状態で、君も苦しいだろうな」


 表情の変化を感じ取ったのか、フィーガスがカップをソーサーに戻して顔を上げる。

 しかしラインギルは首を左右に振り、どこか諦めたような、憑き物が落ちたような、苦く曖昧な微笑を浮かべた。


「いいえ。俺たち兄妹は、きっと、そもそも上手くいっていなかったんだと、思います。兄妹に限らず、両親とも」


 それまで互いの間にあったのが、本当に愛情だったのか。今では疑問すら浮かんでしまう。

 彼は唇を震わせ、しかし赤らんだ鼻を啜って片手で目元をほぐした。

 フィーガスから視線を逸らし、扉の前で控えるバラに目を向けてくる。バラが姿勢を正せば、彼は少しだけ穏やかに笑った。


「……俺にできることは、ライネリカの未来を護る事です。その為に行動し生きてきました。それだけは胸を張って、誇りに思います」

「君は……良き兄だと、思うぞ」

「ありがとうございます。……閣下。ライネリカは元に戻るのでしょうか」

「戻す」


 戻る、ではなく戻す、と言うあたり、彼の決意の固さを表している。


「シガリアはライネリカの存在を脅かす。……僕には彼女が必要だ。絶対に取り戻す」


 黒曜石に似た瞳を窓の外に向けたフィーガスに、ラインギルは些か面食らった顔をしていた。しかし徐々に表情を和ませると、片手を伸ばして己に用意されたカップを手に取る。


「閣下も変わられましたね」

「……大事な婚約者殿が変わろうとしている傍で、僕だけ変わらないままは恥ずかしいだろう」

「ありがとうございます。あの子もきっと喜ぶ。……ですが、シガリア様は閣下の養母様、ですよね。……完全に敵対する道を選ばれた」


 ラインギルの指摘に、しかしフィーガスは小さく笑った。

 頬杖をつく片手でそのまま顔を多い、何かを堪える仕草で数秒、沈黙を返す。

 緊張感すら滲む空気に、ラインギルが口を閉ざして見つめる中、彼はようやく口を開いた。


「…………シガリアは死んだ方が良かったんだ。僕ら兄弟も、彼女と別れたあの日、本当は死ぬべきだった」

「それは……?」

「僕らの祖国で起こった大戦の引き金は、シガリアであったそうだ。あの女はある男の愛を得たかったからだと、そう言ったよ。その事実を知ってしまった今、僕は彼女を生かして国へは帰れないし、やはり彼女を殺す事でしか救えないと思っている」

「……共に帰り、罪を償わせるという選択肢は与えないのですね」

「当たり前だ。自分の婚約者を殺してまで、あの女に償わせる罪などないだろう。──ライネリカの生存が全てだ。彼女の幸福以外に、僕は何も欲しくない」


 一つの澱みなく言い切った彼は、しかし再び双眸を窓の方に移す。

 バラの視界に映るフィーガスの顔は、言葉とは裏腹に寂しい感情を抱えた横顔だった。


「…………あの時、ちゃんとそう伝えて……答えを引き伸ばさなければ、よかった」


 ライネリカの帰りを、孤独に怯えて待つような。

 幼い子供のような顔だと、バラはただ、そう思ったのだ。


 

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