第百八話
糸が一斉に解けて光が見えた。一尺ほどの隙間しかない場所で、二人を取り囲む針が静止する。
少し動けば傷を作りそうな程の近さに、ラジレイシアは横目に外の様子を確認した。
視界の端で、口から血を流しながら、怒りで真っ赤に染まった顔でこちらを凝視するアスターが見える。
片手を前に突き出した格好だが、『騎士』としての力を闇雲に使いすぎて、息は上がり意識が朦朧としているようだった。その状態でも針を止める精神力があるのだから、彼女の矜持は相当なのだろう。
針は次第に重力へ従い、ばらばらと地面に落ちて消えていく。
アスターの膝が崩れ、隣で支えるリュグザが抱き止める。彼の下瞼も黒く澱んで、怒りと焦燥が滲んでいた。
ラジレイシアは改めて思い知る。
ライネリカがいるからこそ、個性が強すぎる『騎士』は一つにまとまれるのだ。
女神がいなければ、真価を発揮する事もできない。
ラジレイシアは大きく息を吸い込むと、目の前で力なく俯くキリノスの横面を、容赦なく鮮やかに張り飛ばした。
あまりの衝撃に短い悲鳴を上げて転がったキリノスに、アスターとリュグザが虚をつかれた表情で静止する。ラジレイシアは両手を軽く叩くと、二人に向き直った。
「ラジーさ、っま!?」
顔色の悪いアスターの両頬を、ラジレイシアは両手で叩き挟み込む。目を白黒させながら瞳を見つめる彼女を、至近距離から見つめ返した。
「我を忘れるのは、おやめなさい!! 騎士の風上にも置けなくてよ!」
「っ申し訳、ありませ」
「リュグザ殿下! 殿下もですわ、周囲をご覧になって!!」
「ラ、ジレイシア嬢、ッ」
矛先が向いたリュグザが、些か呆けた顔で視線を揺らす。ラジレイシアは失礼を承知で、彼の胸元を片手で掴むと、損壊の酷い壁に顔を向けさせた。
土煙がようやく収まり、現状が視界にひらけてくる。
酷い有様だ。崩れた壁の向こう側にある部屋は、家具も薙ぎ倒され、切り刻まれ、衣類や小物が散乱している。キリノスの糸の結界が作用していなくても、惨状に周囲の誰も近寄れず、瓦礫が積まれてこちらの様子も視認できない。
改めて把握させれば、リュグザが口を引き結んだのが見えた。
「殿下はネリカに火の粉が降らぬよう、長きに渡り注意を払ってくださっていたのでしょう? 怒りは他者へ介入する隙を与えますわ。あなたはシスボイリー国皇太子。我らが女神の名のもとに、この国を背負う方でしてよ」
ラジレイシアは彼の胸元を掴んだまま、微かに声が届く範囲に引き寄せる。
「……リュクサオル。あなたが先立ち、皆の行く道を照らしなさい。あなたは『灯』なのだから」
「っ──シ」
大きく目を見開いてリュグザに、それ以上の発言を与える隙なく、ラジレイシアは片手を離してから数歩距離をとった。
そして汚れたドレスを優雅に持ち上げ、深く体を沈めて頭を下げる。
「リュグザ第十二皇子殿下、並びにアスタロイズ皇太子妃殿下。度重なる当家の不始末、面目次第もございません。エイロス国元第一王女、ラジレイシア・ベルジャミンとして、不祥事に対し共に責任を果たしますわ。──如何様にも、従います」
美しい所作で、響くように涼やかな声で、ラジレイシアは謝罪を口にする。
隣に戻ってきたキリノスも嗚咽を堪えながら、地面に額がつくほど顔を伏せた。
静寂が辺りを包む。
途方もないほど長く感じる時間が経過した後、リュグザが苛立ちを発散させる息を吐き出した。
「………………許します。……面をあげなさい」
許可を得てラジレイシアが顔を上げれば、リュグザが片手で顔を覆い、再度、溜め息をつく。
「…………エイロスの大女神に頭を下げさせたと知れたら、今度こそ、我が君から口を聞いてもらえなくなる」
「まぁ」
「やめだ。やめましょう。怒りの感情はあれど、キリノスが独自に動いていたからこそ、有意に働いたこともある。俺も腹心を失うのは痛手ですから。己の感情に振り回され、利を手放すわけにはいかない」
「………………すみません」
キリノスの顔色が戻らないのは、アスターの目から憤怒が消えていないからだろう。
彼女は無造作に己の唇を汚す血を片手で拭き取り、震える両手を握りしめて視線を逸らす。
ラジレイシアは双眸を細め、姿勢を正して彼女を見据えた。
「アスター」
「…………はい」
「大丈夫。ネリカは戻って参りますわ」
その一言に、アスターが瞠目して目を合わせる。
根拠のない慰めではない。その事実を知ってほしい。
ラジレイシアの中から徐々に、緩やかな温度で一つの命が抜けていく感覚があった。
先ほどまで脳内を渦巻き、思考を阻害していた浅ましい女の慟哭が、霧が晴れるように解けていく。
同時に湧き上がるのは、安堵と焦りだ。
刻一刻と、運命の日は近づいている。
「時間がありませんわ、皆々さま。……あたくしたちの主君と生きる未来の為に、今は辛抱強く行動いたしましょう。……我らは祝福を授かった、女神ライネリカの『騎士』。それを忘れて仲間割れをしている場合ではない、という事ですわ」




