第百七話
一瞬の間の後。
無数の、それこそ数百はくだらない赤黒い針が、上空を覆う。
本能的に生命の危機を感じたキリノスが、両手の指を折り曲げ、他者の侵入を阻んでいた糸を、己とラジレイシアの周囲まで狭めた。一呼吸の猶予もなく降り注いだ針は、繭と見まごうほど圧縮された糸に次々と突き刺さる。
兄に抱きしめられたラジレイシアが、内部に響く音に悲鳴をあげた。
「アスター!!」
「ダメだ、ラジー!! ここから出るな!!」
強固な結界は揺るがないものの、音は止むことなく降り注ぐ。まるで豪雨だ。視界が覆われ外界を確認できない。繭の中も光を失い、かろうじて輪郭が視認できる程度だ。
それが余計に、アスターの怒りを知らしめている。
ラジレイシアはキリノスに詰め寄った。
「ラバル兄上さま!! 一体どういうことですの!? ラヒューレ兄上さまを手引きしたとは!?」
「っ、それは、ごめん、本当にごめん、でも、ネリカに危害を加えるつもりは」
「分かってますわよ、そんなこと!! 兄上さまがネリカを大事にしなかった事などございませんわ!! だから理由を聞いていましてよ!!」
激しい音に、至近距離にいる互いの声さえ聞こえない。それでもラジレイシアは、顔面蒼白で訴えるキリノスに叫び返した。
彼の衣服には、リュグザと交戦した跡がある。同じ『騎士』であるキリノスの身体に、傷が残ることはないが、布には無視できない量の血が付着していた。
傷が塞がり死なないだけで、感じる痛みは同じである。
リュグザとアスターの信頼を裏切ったのだ。その結末を分からないほど、兄は無能ではない。
だからラジレイシアは問いかけるのだ。
彼の覚悟の、内側を。
キリノスは片手で自身の髪を掻き乱し、再びラジレイシアを両腕に閉じ込めた。肩口が濡れるのは、細い腕で抱きしめ返した兄が泣いているからだ。
「ラジーに、俺の隣に、戻ってきて欲しかった」
「え……っ」
「ラジー、お前が嫁いでから、ずっと、ずっと嫌だった。貴族の役目だなんだって、俺には理解できない。なぁラジレイシア、っ愛してるよ。離したくない。俺の見えないところで傷ついてほしくない。俺の隣で、ずっと、……一緒に生きてくれよ……!」
驚愕に目を見開いて、顔を上げる。
長身の彼がどんな表情をしているのか、ラジレイシアからは見えない。それでも懇願する声が嘘偽りのない本音であることを、確かな感情として伝えてくる。
彼は嗚咽を交えながら、自らの行いを白状する。
何を想い、何に怯え、何を信念に動いてきたのかを。
ああ本当に、そうなのか。
ラジレイシアは湧き上がった想いに、唇を噛み締めた。
兄は幼い時から飄々として、掴みどころがなく、相手を傷つけない嘘が巧かった。だから心の奥底で燻らせる熱を、誰にも気づかれていないと思っていたのだろう。
ラジレイシアの婚姻が推し進められた時、確かにキリノスは遠方にいた。デージル公爵領に嫁ぐよう、様々な理由を並び立てたのは確かにラヒューレだ。
だが初めにラジレイシアを説得し、婚姻を急いだのはエイロス王妃。──自分達兄妹の母である。
母は言ったのだ。
ライネリカを心配する気持ちは理解する。自分もまだラジレイシアと共にいたい。だが母として、ラバルの将来も、ラジレイシアの安全も守りたい。
このままエイロス国に留まっていては、いずれ二人の親愛は破綻してしまうと。
おそらくこの騒動は、彼なりの譲歩だ。
掴み取ってはいけない存在に焦がれた、己との決別なのだ。
ラジレイシアは再度、両手で抱きしめ返し目蓋を閉じる。
「……兄上さま。あたくしは、あなたの良き妹ですわ」
耳元で息をのむ音がした。
嫌だとラジレイシアの主張を否定しないのは、彼の矜持なのだろう。
「あたくしは、ラジレイシア・ベルジャミン。お父上さまと、お母上さまの血をつぐ、あなたの実の妹ですの」
「…………ああ」
「あたくしがあなたに、同じ想いを返す事はありませんわ。申し訳ございませんが、兄上さまを殿方としてお慕いすることは、未来永劫、ございませんの」
背中を軽く叩き、ゆっくりと身を離す。キリノスは呻いたものの、華奢な体を追いかけなかった。
顔を見つめても輪郭しか分からない。それでも確かに、彼の双眸はラジレイシアを見つめ返した。
想いは返せない。肯定もできない。
だがラジレイシアは、嬉しかった。
己が積み重ねた信用を投げ捨ててでも、血の繋がりや王家の立場を壊してでも、彼女を得ようとした男がいる。
その事実だけで嬉しかった。
彼女は声を上げて泣きたいくらい、嬉しかったのだ。
「でも、兄上さまがあたくしを想い、あたくしの害なる存在を退けようとしてくださる事に、感謝いたしますわ。……あたくしは、あたくしの価値を、誇りに想います」
「ラジー……」
「共にリュグザ殿下とアスターに叱られますわよ。……大丈夫。あたくしにお任せになって。あたくしはあなたの妹ですもの」
完全に体温は二人の間を分かつ。空気の揺れを通して、キリノスが微かに笑ったような気がした。
その刹那。




