表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/148

第百七話




 一瞬の間の後。

 無数の、それこそ数百はくだらない赤黒い針が、上空を覆う。

 本能的に生命の危機を感じたキリノスが、両手の指を折り曲げ、他者の侵入を阻んでいた糸を、己とラジレイシアの周囲まで狭めた。一呼吸の猶予もなく降り注いだ針は、繭と見まごうほど圧縮された糸に次々と突き刺さる。

 兄に抱きしめられたラジレイシアが、内部に響く音に悲鳴をあげた。


「アスター!!」

「ダメだ、ラジー!! ここから出るな!!」


 強固な結界は揺るがないものの、音は止むことなく降り注ぐ。まるで豪雨だ。視界が覆われ外界を確認できない。繭の中も光を失い、かろうじて輪郭が視認できる程度だ。

 それが余計に、アスターの怒りを知らしめている。

 ラジレイシアはキリノスに詰め寄った。


「ラバル兄上さま!! 一体どういうことですの!? ラヒューレ兄上さまを手引きしたとは!?」

「っ、それは、ごめん、本当にごめん、でも、ネリカに危害を加えるつもりは」

「分かってますわよ、そんなこと!! 兄上さまがネリカを大事にしなかった事などございませんわ!! だから理由を聞いていましてよ!!」


 激しい音に、至近距離にいる互いの声さえ聞こえない。それでもラジレイシアは、顔面蒼白で訴えるキリノスに叫び返した。

 彼の衣服には、リュグザと交戦した跡がある。同じ『騎士』であるキリノスの身体に、傷が残ることはないが、布には無視できない量の血が付着していた。

 傷が塞がり死なないだけで、感じる痛みは同じである。

 リュグザとアスターの信頼を裏切ったのだ。その結末を分からないほど、兄は無能ではない。

 だからラジレイシアは問いかけるのだ。

 彼の覚悟の、内側を。

 キリノスは片手で自身の髪を掻き乱し、再びラジレイシアを両腕に閉じ込めた。肩口が濡れるのは、細い腕で抱きしめ返した兄が泣いているからだ。


「ラジーに、俺の隣に、戻ってきて欲しかった」

「え……っ」

「ラジー、お前が嫁いでから、ずっと、ずっと嫌だった。貴族の役目だなんだって、俺には理解できない。なぁラジレイシア、っ愛してるよ。離したくない。俺の見えないところで傷ついてほしくない。俺の隣で、ずっと、……一緒に生きてくれよ……!」


 驚愕に目を見開いて、顔を上げる。

 長身の彼がどんな表情をしているのか、ラジレイシアからは見えない。それでも懇願する声が嘘偽りのない本音であることを、確かな感情として伝えてくる。

 彼は嗚咽を交えながら、自らの行いを白状する。

 何を想い、何に怯え、何を信念に動いてきたのかを。

 ああ()()()、そうなのか。

 ラジレイシアは湧き上がった想いに、唇を噛み締めた。

 兄は幼い時から飄々として、掴みどころがなく、相手を傷つけない嘘が巧かった。だから心の奥底で燻らせる熱を、誰にも気づかれていないと思っていたのだろう。

 ラジレイシアの婚姻が推し進められた時、確かにキリノスは遠方にいた。デージル公爵領に嫁ぐよう、様々な理由を並び立てたのは確かにラヒューレだ。

 だが初めにラジレイシアを説得し、婚姻を急いだのはエイロス王妃。──自分達兄妹の母である。

 母は言ったのだ。

 ライネリカを心配する気持ちは理解する。自分もまだラジレイシアと共にいたい。だが母として、ラバルの将来も、ラジレイシアの安全も守りたい。

 このままエイロス国に留まっていては、いずれ二人の親愛は破綻してしまうと。

 おそらくこの騒動は、彼なりの()()だ。

 掴み取ってはいけない存在に焦がれた、己との決別なのだ。

 ラジレイシアは再度、両手で抱きしめ返し目蓋を閉じる。


「……兄上さま。あたくしは、あなたの良き妹ですわ」


 耳元で息をのむ音がした。

 嫌だとラジレイシアの主張を否定しないのは、彼の矜持なのだろう。


「あたくしは、ラジレイシア・ベルジャミン。お父上さまと、お母上さまの血をつぐ、あなたの実の妹ですの」

「…………ああ」

「あたくしがあなたに、同じ想いを返す事はありませんわ。申し訳ございませんが、兄上さまを殿方としてお慕いすることは、未来永劫、ございませんの」


 背中を軽く叩き、ゆっくりと身を離す。キリノスは呻いたものの、華奢な体を追いかけなかった。

 顔を見つめても輪郭しか分からない。それでも確かに、彼の双眸はラジレイシアを見つめ返した。

 想いは返せない。肯定もできない。

 だがラジレイシアは、嬉しかった。

 己が積み重ねた信用を投げ捨ててでも、血の繋がりや王家の立場を壊してでも、彼女を得ようとした男がいる。

 その事実だけで嬉しかった。

 彼女(シガリア)は声を上げて泣きたいくらい、嬉しかったのだ。


「でも、兄上さまがあたくしを想い、あたくしの害なる存在を退けようとしてくださる事に、感謝いたしますわ。……あたくしは、あたくしの価値を、誇りに想います」

「ラジー……」

「共にリュグザ殿下とアスターに叱られますわよ。……大丈夫。あたくしにお任せになって。あたくしはあなたの妹ですもの」


 完全に体温は二人の間を分かつ。空気の揺れを通して、キリノスが微かに笑ったような気がした。

 

 その刹那。


 

 

 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ