第百六話
自分は今、本当にラジレイシアという個を保てているだろうか。
ガーデンパーティーで彼女は、毒物を探し当てたシガリアを見て、何も言わずとも思ったのだ。
──ああ、懐かしい。
「……」
アスターが驚愕に目を見開き、そのまま硬直する。その表情から慈愛が薄れていくことが、ラジレイシアは何よりも恐ろしかった。
「我が義子たちと、同じような遊びをしましたわ。一つだけ違う物を紛れ込ませて、見つけた物が陣を取る」
「ラジーさま、いけません」
「得意でしたの。いえ、もしかしたら、花を持たせてくれていたのかも、しれませんわ。フィーガスも、リュクサオルも、良い子だったのよ」
「それ以上、言葉にしてはいけません!」
震える声に被さり、張り上げた怒声が空気を振動させる。
ラジレイシアは肩を跳ねさせ、泣きたいほど苦しいのに、乾いた目尻を下げて微笑んだ。
立ち上がるアスターが小さな体を抱きしめ、宥める仕草で肩を撫でる。
頭の中で幾重にも記憶は重なり、自分のものであるのかも、他者のものであるのかも、分からないほど混ざり合っていく。
ガーデンパーティーを乗り越えられたのは、自身の中にあるシガリアとしての記憶のおかげでもある。
懐かしいと率直に思い、だからこそ同じ存在であるシガリアに、指示を出せたのだ。
自身は正気だ。言っている言葉の意味も分かる。アスターが話を遮る理由も、己が口を噤まねばならない理由も、今はまだ理解できる。
ではいつまで?
ライネリカを隠されたこの世界で、いつまで自分は、正気でいられるのだろう。
「……苦しいわ……」
「…………ラジーさま」
「あの子がいないことが、こんなにも苦しい……っ苦しい、寂しい、心臓が止まってしまいそうだわ……! ……ああ、どうして、どうしてですの、あたくしを見離しにならないで……我が主よ……!!」
悲痛な呼び声が空気を振動させた刹那。
宮殿のどこかで、凄まじい轟音が響き渡った。
「きゃぁあッ!?」
「──ッ」
咄嗟にラジレイシアを壁に押し付け、背に庇ったアスターが瞬時に周囲を見渡す。
ラジレイシアも顔を上げれば、どうやら宮殿の外壁を吹き飛ばすほどの、爆発があったようだ。外壁を挟んだ向こう側から煙が上がるのが見え、シスボイリーの兵たちが叫びながら駆けていく。
唖然として口を引き結ぶ彼女の耳に、アスターの呟き声が微かに聞こえた。
「あっちは、リュグザさまの……」
「っお行きなさい!」
顔色を変えたアスターに、ラジレイシアが声を張り上げる。
しかしエイロス国の騎士団長として、ラジレイシアを置いていくことは躊躇われたのだろう。彼女は逡巡した様子を見せた後、失礼します、と短く言って、横向きにラジレイシアを抱え上げた。
突然足が宙に浮いて、先ほどとは別の悲鳴が口から飛び出る。
「ちょ、お待ちなさい、アスター、あたくしを連れて行っては」
「舌を噛みますから口を閉じて、ラジーさま! 私の首から、手を離さぬよう!」
「ああもうッ、あなたって人は──!!」
軽く助走したアスターが、床を踏み抜いて一気に跳躍した。
空気を裂いた音に遅れて、突風が二人のドレスを翻す。
回廊から小さな庭園に出て、外壁を軽々と飛び越えた先に、土煙を上げ崩れ落ちる壁面が見えた。
アスターが近くに降りようとすれば、彼女は何かに気がつき、その上に足を掛ける。
糸がたわむように沈み込んだ二人だが、足が地面につく前に反動で更に上空へ飛び上がった。
「ラバル兄上さまの、糸ですわ」
眼下に、無数の見えない糸が張り巡らされている。
おそらく余計な侵入者を排除する目的なのだろう。ラジレイシアが周囲を見れば糸に阻まれた兵たちが、不可思議な状態に右往左往、慌てふためいている。
アスターが難なく糸の上に再度着地し、ラジレイシアを横抱きにしたまま、下を覗き込んだ。
土煙の中から、誰かが転がり出てくるのが見える。
愛用しているローブが無惨にも引き裂かれ、恐怖に顔を歪める彼に、二人は目を見開いた。
「兄上さま……?」
「まっ、……って、ください! 挽回する余地を、どうか」
不審げに揺れるラジレイシアの声に、キリノスの懇願が被さる。
一体何をやって、と目を凝らせば、彼の視線の先から姿を見せたのは、リュグザだった。
「挽回? 我が君の安寧を脅かしたお前に、なぜ俺が恩情をかけねばならない?」
温厚の皮に覆われた笑みを失い、地を這う様な声は怒髪天をつく。
惨状に気を使う余裕もないのだろう。一歩、また一歩とキリノスに近づく度に、背後で壁が崩れるが、一瞥もしない。
彼はキリノスの前までくると、怒りで金色に燃え盛る双眸を細める。
その様を目の当たりにしたラジレイシアは、咄嗟に空中へ三又の槍を出現させると、力の限り地面に向かって投げつけた。
糸を貫通したそれは、目視通り、リュグザとキリノスの間に突き刺さる。先ほどの爆発音と引けを取らない轟音が響いたかと思えば、地面が陥没してリュグザが数歩、後退した。
糸の結界が微かに緩み、アスターはラジレイシアを抱えた状態で飛び降りる。
「リュグザ殿下、一体、何事ですの!?」
地面に降り立ちリュグザに詰め寄れば、彼はやんわりとラジレイシアを退け、アスターに視線を向けた。
「アスタロイズ、やられました。ラヒューレ殿下を手引きしたのは、身内でしたよ」
「…………え?」
「キリノスが私欲の為にラヒューレ殿下を貶めたく、我らが女神を利用したそうだ」




