11. 野木遥の人生相談室
壁谷さんと一緒に、会場近くの喫茶店に入る。
僕は席についたら早速メニューを広げて、壁谷さんに見せた。
「ここは僕がおごるから、好きなの頼んでください」
「ひゃ、ひゃい」
壁谷さんはココアを、僕はミルクティーを頼んだ。注文した後、僕は壁谷さんに向き直る。
「相談したいことって、なんですか?」
壁谷さんは机の上に拳を置いて、ぎゅっと握った。
「大学を、中退したいんです」
いきなりの本題だ。僕はお冷やで唇を湿らせて、視線で話を促した。壁谷さんは訥々と語り始める。
「俺は漫画家として生きていきたいんです。だけど今、課題のせいで締め切りに遅れそうになるのがもどかしいんです」
なるほど、課題。それで原稿が遅れることもあるのか。
最初から専業だった僕には盲点だった。
「壁谷さんは、漫画家として生きていきたいんですね」
「はい。野木先生みたいに……!」
僕に憧れているのは、本当みたいだ。ふむと考え込んで、僕は壁谷さんから少し視線をそらした。
「……大学を辞めることについて、ご家族には話してありますか?」
「何を言われても心は変わりません。話してないです、どうせ引き留められるだけだし。佐原さんにも止められていて、でも納得いかなくて。それなら野木先生に相談しろと言われました」
参った。これは相当強情そうだ。
僕は壁谷さんに視線を戻して、机の上に肘をつく。少し前のめりになって尋ねた。
「漫画家として生きていくことは、何歳からでもできます。今この瞬間にしかできないことも、たくさんあります。勉強はその最たるものです」
う、と壁谷さんはたじろいだ。でも気持ちは分からないでもない。
僕はもう勉強したくなかった。勉強が嫌いだったわけじゃないけど、漫画で賞をもらってデビューが決まって、舞い上がっていた。勉強なんかより、漫画を描く時間の方が、もっと楽しくて大切だった。
そして僕は、大学を退学した自分の決断を、ちっとも後悔していない。
「あなたにとって漫画とは、今この瞬間にしかできないことをなげうってでも、人生を賭ける価値があるものですか?」
僕の質問に、壁谷さんがはっと顔をあげた。僕はにこりと微笑んでみせる。
そうだよ、と内心頷いた。僕は壁谷さんを退学しないよう説得に来たわけじゃない。圭人くんも説得したいわけじゃなくて、まだ若い壁谷さんが自分の意思で自分自身の人生を決められるように、僕を相談相手に選んだんだろう。
「壁谷さんの人生です。あなたが漫画に今を捨てても人生を賭けられるならそうするべきだし、そうでなければ今はそうすべきじゃない。それだけ!」
僕が言い切ったと同時に、ココアとミルクティーが運ばれてくる。壁谷さんは少しためらいがちにココアへ口をつけて、ぽつりとつぶやいた。
「俺、……てっきり、大学は辞めるなって説得されるかと思ってました」
「うん。でもそんなこと言われたって、やる奴はやります」
そしてその最たる例が僕だ。しらじらしく言ってミルクティーを飲むと、壁谷さんは気の抜けた笑顔を浮かべた。
壁谷さんは何度か頷いた。拳を握りしめて、僕を見つめる。表情は明るい。
「俺にとって漫画は、人生です。俺、大学辞めます」
まともな大人だったら考え直せと言うところだろう。だけど僕はあいにく、まともな大人じゃない。
その笑顔に向かって、メニュー表を広げてみせた。
「それじゃあ、壁谷さんの新しい門出ということで。ケーキ食べますか?」
「ええっ、いいですよ」
「いいから、いいから。壁谷さんが食べなかったら僕が食べます」
結局反対する壁谷さんを説き伏せて、僕はチーズケーキを、壁谷さんはチョコレートケーキを頼んだ。
あっという間に運ばれてきたそれをつつきながら、漫画談義をする。
お互いのケーキと飲み物がなくなっても話は終わらない。僕たちは閉店間際になるまで話し込んでいた。
白熱する僕たちのテーブルの前で、誰かが立ち止まる。
「お二人とも。閉店ですよ」
圭人くんだ。僕は顔をあげる。壁谷さんは「げっ」とあからさまに顔をしかめた。
「佐原さん、どうしてここに」
「あなた、一応まだ二十歳未満でしょう。夜遅くまで出歩かないでください」
「法的には成人ですよ」
あれこれ言い合っている二人をよそに、僕は伝票を持って立ち上がる。
会計を済ませて、まだ言い争っていた二人に声をかけた。
「お会計してきたから、出よう」
壁谷さんは「ありがとうございます」と頭を下げた。圭人くんはじっとりと壁谷さんを見下ろしてから、ため息をついた。
「行きましょう」
三人で夜の街を歩く。僕たちは最寄り駅について、それぞれ改札を通った。
「じゃあ俺、あっちなんで。お疲れ様です!」
壁谷さんはぶんぶん手を振って、僕たちから離れていく。僕たちは僕たちで顔を見合わせて、帰る電車のホームに向かって歩き始めた。
「壁谷、なんて言ってました?」
「大学辞めるってさ」
「そうですか。面倒くさいな」
チッと舌打ちする圭人くんの治安が悪くてかっこいい。僕は「なんとかしてあげて、とは言わないけど」と前置きして言った。
「たぶん、あの子は大丈夫だよ」
「そうですか……そうですね」
圭人くんはため息をついて、「あー」とうめいた。
「遥さん。重たい役回りを押し付けてしまって、すみません」
「ううん、いいよ。壁谷さんも、僕の言葉だったから、本当に腹が決まったんじゃないかな」
「そうでしょうね」
僕たちはのんびり話しながら、電車に乗って自宅へ帰った。
家に帰って、部屋の電気をつけて、二人でコートを脱ぐ。
圭人くんがエアコンとヒーターをつけて、先に椅子へ座った。
「遥さん」
名前を呼ばれるままに、圭人くんの膝へ乗る。横座りになって、ぐったりと体重を預けた。
「楽しかったけど疲れたなぁ」
圭人くんは僕を抱きしめて、ぽんぽんと背中を叩いてくれた。
「がんばりましたね」
「うん」
ぐりぐりと肩口に目元を押し付けて甘える。圭人くんは僕に頬ずりをして、「ありがとうございます」とお礼を言った。
「すごく助かりました」
「うん。だけど、こっちこそだよ」
僕の言葉に「え?」と圭人くんは首を傾げた。僕はくすくす笑いながら、圭人くんの胸元に手を置く。
「頼ってくれて、嬉しかった」
圭人くんは唇を尖らせて、ん、と小さく頷いた。照れているときの顔だった。




