9. 本音と本音のぶつかり稽古
僕たちは家に帰った。
三日ぶりの我が家は、相変わらず片付いている。圭人くんが先に中へ上がって、僕が後に続く。
圭人くんはリビングの椅子を僕に向かって示した。
「どうぞ」
「面接じゃないんだから」
緊張しきりらしい圭人くんが面白い。でも笑っちゃいけないことは分かる。僕はできるだけ真面目な顔をして椅子に座った。
圭人くんも向かい側に座る。僕たちはしばらく無言だった。
僕の方が先に、耐えられなくなって口を開く。
「寂しかった」
本当のことだ。圭人くんははっとした表情で僕を見つめた。
「本当は喧嘩したくなかったけど、圭人くんの態度にカチンと来た」
そして息継ぎをして、圭人くんをにらむ。
「あの態度はなに」
たったこれだけの言葉で、はい……と圭人くんはうなだれた。
「お、俺……壁谷さんに、嫉妬しました……」
「どうして。僕と壁谷さんに面識ないことは分かってたんじゃないの?」
話しているうちに、もやもやがぶり返してくる。圭人くんは雨に濡れた子犬みたいな目つきで見つめてくるけど、ここで怯んではダメだ。
フンとそっぽを向いてやる。
「身に覚えのない浮気を疑われて、い、嫌だった」
「浮気なんて疑ってないです!」
悲鳴みたいに圭人くんが言う。
「あ、あの時は全然予想してなかったことを言われて、驚いてしまって」
「でも嫉妬したんでしょ」
「はい」
「じゃあ浮気を疑ったんだ」
「違います!」
圭人くんの声色が少し険しくなった。
「お、俺は、漫画描きじゃないから……!」
何かの長い弁明が始まる流れだ。僕はじっとりとした目つきで圭人くんを見つめた。
「それで?」
「怖かったんです、壁谷さんと遥さんが通じ合うのが!」
吐き捨てるみたいに圭人くんが言う。
「壁谷の実力は俺も分かってます。俺もあいつも遥さんの漫画が好きです。だけど俺は漫画が描けない。最終的には自分で描かないことを選んで編集者になったけど、でも」
でも、なんだ。その後に続く言葉を待った。
圭人くんはかわいそうなくらい青ざめた顔で言った。
「……俺は、漫画を描く側の景色を知らない。でも壁谷と遥さんはそれを知っている。俺より壁谷の方が、遥さんと分かり合えるんじゃないかって、不安になりました」
そういえばこの人、いつの間にか自分の担当作家を苗字呼び捨てにしている。僕は呆れるやらかわいいやらで、顔を思い切りしかめた。
「あのね。それを先に言ってくれなきゃ分からないよ」
「はい……」
「あの時の圭人くん、ちょっと怖かったんだから」
「すみません……」
ひたすらしょぼくれる圭人くんに、僕は椅子から立ち上がった。側に寄っていって、左巻きのつむじの上に手を置く。整髪料でばっちりきまった髪の毛をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
「うわ、うわ」
圭人くんは間抜けに驚いている。僕は「あのね」と囁いた。
「僕は、僕のファンが大切だよ。だからそうじゃない他の人より特別扱いするけど、漫画を描くか描かないかは関係ないんだ」
語りかけるように言うと、圭人くんはうなだれた。僕はたまらず抱きしめて、頭を撫でる。
「それに漫画を描くって言っても、見えてる景色が同じなわけないよ。違う人間なんだから」
それにね、と続けた。
「圭人くんは、僕にとって、ファンとか読者とかじゃないよ」
「ファンじゃない?」
掠れた声が絶望的で、何か勘違いしていそうだ。僕はちいさく笑って続けた。
「恋人。僕の漫画の理解者。元担当さんで、僕と共同作業をする人だ」
僕の背中に大きな掌が回る。圭人くんは僕をぎゅっと抱きしめて、胸元にすがりついた。
「……遥さん。勘違いして嫉妬して、拗ねて怒って、ごめんなさい」
「うん。次はないよ」
嘘だ。次同じようなことがあっても、僕は圭人くんにいちいち怒って側にいるだろう。
だけど圭人くんは間に受けたみたいだ。はい、ともごもご頷く。
「気をつけます」
圭人くんが落ち着くまで、僕らは抱きしめ合っていた。やがて圭人くんはすんすん鼻を鳴らしながら顔を上げる。
「遥さんの淹れたコーヒーが飲みたい」
「うん。分かった」
僕は意気揚々とコーヒーメーカーを出して、粉と水をセットした。圭人くんは椅子から立ち上がって、背中から僕に抱きつく。
「本当に、よかった……」
そして僕のうなじを吸う。いきなりの密着だけど、正直そう悪い気分じゃない。
お腹の前に掌が回って、下腹部で指が組まれる。ぐっと引き寄せられて、きっとそういう意図がないと分かってはいてもどきりとした。
「ごめんなさい、遥さん。俺がいろいろ幼稚だったせいで、えらい迷惑かけて」
「ううん。いいよ、大丈夫だよ」
かわいそうなので、がちがちの肩をなんとか回して撫でてあげる。圭人くんは肩口へぐりぐりと目元を押し付けてきた。ちょっと指圧マッサージみたいで気持ちいい。
「やっとまた好きって言える」
思わず漏れたんだろう言葉に、お腹の奥から胸にかけてがじんと熱くなる。圭人くんは僕を抱きしめて離さない。
「好きです……」
好き、好き、といたいけな声色で言われて、どうにもならない。
僕の寂しさは圭人くんからの求愛でどっぷりと満たされて、心はすっかり潤った。むしろ圭人くんの方が罪悪感もあるせいか苦しそうだ。
なんとか身体をひねって振り向きながら背伸びをする。ちゅっとキスすると、圭人くんは目を丸くして驚いた。
「分かってる」
ぼそぼそ呟くと、圭人くんは「遥さん」と感極まったように言った。ひっしと抱き着いてくる。
だけど正直、僕はこれだけじゃ物足りない。
だって僕は、三泊四日もいなかった。
つまり、圭人くん抜きの夜を三回も過ごしている。
あけすけに言うと、むらむらしていた。
コーヒーができあがる。圭人くんが二人分のマグカップに注ぐ。僕の分の方がちょっとだけ多くて、それがたまらなかった。
「圭人くん」
圭人くんがカップをテーブルに置いたタイミングで抱きつく。今度は僕の番だ。圭人くんは「わっ」と声をあげてハンズアップした。
「僕も好き……」
途端に、部屋の中の空気が甘ったるくなる。コーヒーの香りが心を落ち着かせてくれるけど、胸の奥がふつふつと沸き立って止まらない。
ごくり、と生唾を飲み込む音が、圭人くんの喉仏から鳴った。
「とりあえず、コーヒー、飲みましょう」
午後のうららかで明るい午後。優しいコーヒーの香り。穏やかな雰囲気。
そういうのが全部邪魔だと思うくらい、僕は欲情していた。
「遥さん。ほら、座って」
そう言われたのでしぶしぶ椅子に座ってコーヒーを飲む。全然味なんか分からない。
たぶん圭人くんも同じ気持ちだろうことは、目つきでなんとなく分かった。
僕たちはかつてない速さであつあつのコーヒーを飲み干して、どちらからともなく一緒に浴室へ向かった。




