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8. 帰宅前の悪あがき

 三泊四日の缶詰は、無事に終わった。

 僕は午前中にチェックアウトした後、圭人くんが退勤する頃には帰宅するとチャットアプリで伝えた。


 やっぱり、すぐに家へ帰る気にはなれない。あの家に帰って、圭人くんを密室でひとり待つのはつらい。

 リュックを背負ったまま家の近くの喫茶店に入って、しばらく時間を潰すことにした。

 この三日間で散々に落書きをしたタブレットを引っ張り出して、外の風景を写生する。

 平日の昼間の街並みは静かだ。今日はいい秋晴れの日で、からりとした空気が重たい気分を少し楽にしてくれる。


 できるだけ丁寧に線を引いて、時間を稼ぐ。いや充電には限りがあるし、もう帰る期限は決まっているんだけど……。

 ついでに、お昼ご飯にはナポリタンを頼んだ。気まぐれに写真を撮って、圭人くんに送りかけて、やめた。

 その代わりにSNSへアップする。壁谷さんからいいねが来た。ホームをのぞくとギリギリでやっと脱稿したらしい。圭人くんがかわいそうになってきた。壁谷さんに優良進行のコツでも教えた方がいいんだろうか……。


 とはいえ、帰るべき時間まであと何時間も残っている。

 口元はきっと真っ赤だろう。僕はべたべたの口元を気にしながら、フォークにぐるぐるとパスタを巻きつけた。


 こういう時に圭人くんがいたら「口元が真っ赤でかわいい」と言いながら僕の世話を焼くんだろう。追加でおしぼりをもらったり、僕のお冷やがなくなったら僕より先に頼んでくれたり……。


 ダメだ、考えてると寂しくなってきた。

 ナポリタンのピーマンを上手くフォークで刺せないことすら悲しい。うつむいてスプーンですくおうとしたところで、僕のテーブルの前で誰かが立ち止まった。


「遥さん」


 その声にぱっと顔を上げる。

 圭人くんだ。

 今にも泣き出しそうな顔なのに笑っている。


 茫然と「圭人くん」と呼ぶと、彼は向こうの席に座った。手に持っていたビジネスバッグは、机の下のボックスにしまう。こんな時間に、こんな時期に、わざわざ仕事をあがってきたんだろうか。

 店員さんがお冷やとおしぼりを持ってやってくる。圭人くんはデミグラスオムライスとアイスコーヒーのセットを頼んだ。


「口元真っ赤ですよ」


 そう言って、店員さんからもらったあつあつのおしぼりの封を切って、真っ先に僕の口を拭った。

 その手つきの慣れた感じの優しさに、じんわりと胸が熱くなる。


「ありがとう……」


 ぼそぼそお礼を言うと、圭人くんは「どういたしまして」と目を細めた。

 そういえばこの人はすごい美形だったことを、今更になって思い出す。最近はずっと顔を合わせていたから忘れていた。


 耳にいっぱいついたピアス、重たい前髪、切れ長の鋭い目つき。僕が苦手に思いやすい、威圧的な要素がいっぱいある。左目のほくろが大人っぽくて色っぽい。

 なのに、僕はこの人のことをかわいいと思っている。


 問題行動がそれなりにある大きな子犬。ふとそんな言葉が頭によぎって、思わずふっと笑ってしまった。


「どうかしました?」

「ううん。なんでも」


 拭われた口元をまた真っ赤にする勢いで、僕はパスタを食べる。圭人くんは首を傾げながら、先に運ばれてきたアイスコーヒーにストローを差した。


 僕たちはしばらく無言だった。僕が最後の一口を食べると、またそれとなく口元を拭われる。


「どうしてここが分かったの?」


 僕の疑問に、圭人くんは気まずそうに肩をすくめた。


「……SNS、監視してます」

「そっか」


 正直に言ってくれて助かった。僕は思わず笑ってしまった。


「嬉しい」


 この言葉で合っているかは分からないけど、僕の率直な気持ちはこれだ。

 圭人くんはしょぼしょぼと瞬きをする。


「本当にそれで合ってます?」

「うん。嬉しい」


 僕の言葉に、圭人くんは「そうですか」と首を傾げた。あまり納得いっていないみたいだ。

 圭人くんのオムライスが運ばれてくる。ナポリタンのお皿はさげてもらった。

 僕は頬杖をついて、圭人くんの食事の様子を眺めた。一口が大きくてかわいい。


「かわいいね」

「ん……?」


 圭人くんはますます怪訝な顔になる。僕は話題を変えた。


「美味しい? それ」

「ん」

「じゃあ一口ちょうだい」


 あ、と口を開けて待つ。圭人くんは一回固まった後、スプーンでデミグラスソースをかき集めた。


「はい」


 たっぷりのデミグラスソースをかけて、卵のとろとろ部分とチキンライスを載せて差し出してくる。一番美味しいところをくれるらしい。僕は遠慮なくそれをぱくりと食べた。


「おいひいね」


 その言葉に、圭人くんは「ん」とあいまいに頷く。

 いけないと思いながら、僕はだんだんこの状況を楽しみはじめていた。


 圭人くんは心底反省しているらしく、さっきから目が合わない。だけどときどき、哀れっぽい目つきで僕をちらちら見る。

 かわいい。


「怒ってないよ」


 僕の言葉に、圭人くんのスプーンが止まる。真っ直ぐ僕を見た。

 圭人くんはスプーンを皿の上に置いて、背筋を伸ばした。


「すみませんでした」


 頭をさげられて、僕はその左巻きのかわいいつむじを見つめた。

 圭人くんは低くて掠れた声で、さらに続ける。


「……話、聞いてもらえますか」

「そのために帰ってきたんだよ」


 そう言うと、圭人くんはおずおずと頭を上げた。

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