2. 絶望!すごい新人登場
線画作業を終えて、後はアシスタントさんたちにトーンをお任せする。
ふーっと息を吐いて伸びをして、水を飲みに一旦立ち上がった。これは「できるだけ座りっぱなしにならない」という圭人くんとの約束だ。
ミネラルウォーターのペットボトルを開けてぐびぐび飲みながら、メールをチェックする。締め切り関係のものは即座に手帳へ書いておく。今の編集さんも同じようにチェックしてくれてはいるけど、自分でも管理する努力はしておきたい。
相変わらずスランプだけど、なんとか描けてはいる。こういうのは低空飛行だろうが飛び続けるのが大事だ。
僕は気まぐれに献本された先月号をぱらぱらめくった。読むと自信を失いそうで開けなかったけど、今なら読める気がする。
ふと、手が止まった。
異様に惹きつけられるページがあった。
開く。見開きを大胆に使った大ゴマは今時流行らないのに、果敢に挑んでいるその漫画。
思わずはじめのページまでめくって、じっくりと読んだ。
「おもしろ……」
絶望まじりの呟きが漏れた。
絵は、はっきり言って上手くない。だけど丁寧に描いていて好感が持てる。
何よりこの人が特別なのは、やりたいことをとことんやるという気概がビンビンに伝わるところだ。
こういう物語が好き。こういう画面を描きたい。これでなきゃ嫌だ。
そういうこだわりがあって、でもそれがひとりよがりになっていない。
「誰だ、この人」
慌てて作者名を確認する。そしてその名前に、僕は愕然とした。
「壁谷、稔」
圭人くんが担当している新人だ。僕は茫然とその名前を見つめた。
僕が新人の頃、似たようなことをやろうとしたことがある。だけど永井さんに説得されて、僕はこだわりよりも読者の楽しみを優先した。それは僕が商業でやっていくためだったし、そっちの方が読者さんたちのためになると思ったからだ。
だけど、どうだ。壁谷さんは自分のこだわりを貫いた上で、商業のラインに乗っている。いや、自分を乗せている。
僕にはもう持てない無鉄砲さだ。なんてことだ。
気づくと僕はクロッキー帳を開いていた。壁谷さんのコマ割りを、画面構成を模写する。
へたくそだ。新人さんだから仕方ない。
だけど僕がもう持てない若さというエネルギーが、画面いっぱいに満ちている。商業で受けるかと言われると微妙……というか、厳しいだろう。だから一般的に言えば、壁谷さんは僕のライバルにならないと思う。僕はあくまでエンタメ作家だ。そしてそんな自分に誇りを持っている。
だけどこの壁谷さんの担当編集は、圭人くんだ。
圭人くんに、こんなめちゃくちゃを許してもらったんだ。
僕は圭人くんの漫画読みとしての目を信頼しているし、ある程度は好みや見方のくせなんかも分かっている。
その上で、痛いほど理解したことがあった。
「圭人くん、絶対、こういうの好きだろ……」
気分がずんと落ち込んだ。僕はよろよろとベッドへ倒れこんで、うずくまる。
編集者じゃなく読者としての圭人くんには、エンタメを冷笑しがちな悪い癖がある。逆に言うと、そこから離れた作者独自のこだわりを好む人だ。
いいな。僕はぼんやりと思った。
圭人くんにめちゃくちゃを許してもらえていいな。
好きなように描けていいな。
圭人くんにたくさん褒められたんだろうな。いいな。
考えれば考えるほど情けなくなってきて、僕は椅子に座りなおした。動画投稿サイトでドローイングの動画を開いて、無心で絵を描く。
ずっと絵を描く。手を動かす間は、何もかもを忘れられた。
クロッキー帳をめくるとページが終わった。僕は新しいクロッキー帳をおろして、また描き始めた。
延々と描き続けた。気づけば外は暗くなっていた。圭人くんはまだ帰ってきていない。スマホを確認すると、今日はカウンセリングの日だから遅くなると連絡が入っていた。
「そっか……」
寂しい。
さすがに恋人としての圭人くんの気持ちは疑わない。というか、疑いようがない。圭人くんは、明らかに僕が大好きだ。
だけど漫画家としての一番は僕であってほしい。すごく今更になって、自分の気持ちに気づいてしまった。
「これって、なに……?」
僕はよろよろと立ち上がり、リビングに向かった。このまま仕事部屋にいるとおかしくなる。
圭人くんが帰ってくるまで机につっぷす。鍵の開く音がして、僕は慌てて玄関まで駆けていった。
「おかえり」
「ただいま。……遥さん、どうかしました?」
不思議そうな顔で圭人くんが首を傾げる。僕は玄関先で立ち止まって、「ん」とあいまいに笑った。
「その……圭人くんが担当してる、壁谷さんの漫画読んだよ。すごかったね」
「すごいですよね」
あ、ダメだ。圭人くんの目が一瞬輝いた。
「何回言っても構成を直してくれなかったもんで、とりあえずこれでってゴーサイン出したんです。編集長も許してくれて、本当によかった」
「そうなんだ」
いいなぁ、と思う。僕は散々圭人くんに甘やかしてもらってきたけど、この手の甘やかしはしてもらったことがない。
僕は顔も知らない壁谷さんに、嫉妬していた。
「とりあえず、ご飯にしましょう。用意しますね」
圭人くんはそう言って、靴を脱いで僕の腰を抱いた。こうやって恋人として大事にしてくれているし、圭人くんの気持ちは分かっている。
だけどやっぱり、もやもやした。
「……ん」
僕は圭人くんにしがみついた。上目遣いに見上げると、圭人くんはきょとんとした顔をする。
「遥さん、どうかしました?」
「壁谷さんはいいなーって思ってた。圭人くん、相当甘やかしてるんじゃない……?」
経験上、こういうのは先に白状しておいた方がいい。圭人くんは「あっ」と声をあげて、なぜか頬を赤らめた。
「なんだん、遥さん。嫉妬してくれたんですか?」
「ん」
うなずくのも悔しくて目を伏せると、「そっか」と圭人くんの声が弾んだ。
「俺の唯一は野木遥です。そこは変わりませんよ」
「いちばんじゃないんだ……」
「いちばんじゃなくて唯一。比べるものがないんですよ」
とろとろにとろけそうなくらい甘やかされて、やっと自尊心が回復してくる。うっとりしながら圭人くんに抱き着いた。
いや、このままではいけない。僕ははっと顔をあげて「じゃなくて」と呟いた。
「ごめん、圭人くん。こんなみっともないところ見せて」
「ううん。むしろもっと見たいっていうか……」
どろりと粘度の高くて甘ったるい声で圭人くんが言う。僕の腰がぞくりとした。
「俺の愛憎、今日のベッドでたっぷり聞かせてあげますからね」
そういえば、今日は金曜日だ。僕はぞくぞくしながら「うん」と頷いた。




