1. 同棲開始
「おはようございます、遥さん」
圭人くんの声にゆっくり目を開けると、半袖シャツにスラックス姿の圭人くんが僕のかぶったタオルケットを剥いた。ひんやりと冷房の効いた空気がさっと肌を撫でる。
「おはよー……」
目をこすりながら伸びをすると、「朝ごはんできてますよ」と圭人くんが僕の手を取って起こした。ついでに額へちゅっとキスされる。
「顔洗って、着替えてきてください」
「うん」
今日は平日だ。だから圭人くんは出勤のためにオフィスカジュアルの服を着ている。
そう。出勤前の圭人くんが、僕の家にいる。
なぜなら……僕たちは、同棲しているからだ。
リビングに行くと、ベーコンエッグトーストが並んでいた。キッチンでは圭人くんが冷製スープのもとをカップへ入れて、牛乳を注いでかき混ぜる。
僕は隣に並んで、その手元をじっと見つめる。それがなぜかおかしかったみたいで、圭人くんは「なんですか」と笑った。
「なんでも?」
すっとぼけると「キスしますよ」と脅される。逆にこちらからそっと頬にキスをしてやると、圭人くんは「まったく」と憤慨するふりをした。
カップも机に並んで、僕たちは手を合わせた。いただきますの合図でトーストにかぶりつくと、圭人くんは僕をうっとり見つめた。だけどすぐにため息をついて、「今日は遅くなるかもしれません」とうなだれる。
「壁谷さんとの打ち合わせがあるもんで、もし遅くなったら冷凍庫の作り置きをチンして食べてください」
「ああ。あの新人さんかぁ……」
壁谷稔さん。僕も話には聞いている。圭人くんが新しく受け持った漫画家で、なかなか生きのいい新人らしい。
とはいえ僕もそこそこ生きのいい新人だったので、「がんばって」以外にかけられる言葉がない。頭の中の永井さんが苦笑いを浮かべている。
「はい。じゃあ、俺はもう行きます」
圭人くんはぺろりとベーコンエッグトーストを平らげてスープを飲み干し、洗面所へ消えた。しばらく経ってばっちり身なりを整えた状態でやってきて、また僕の頬にキスをする。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
僕の返事に、圭人くんは心底嬉しそうに笑った。
こちらもこちらで作業がある。今日も今日とて原稿だ。まずはネームを切って、編集さんとの打ち合わせに持っていかなければいけない。
作画アプリを立ち上げて、液タブにも表示する。僕は右手にペンを持ったまま、意味もなく画面の拡大と縮小を繰り返した。そう、意味もなく。
正直に言おう。最近の僕は明らかにスランプだ。
特に理由はないと思う。そういう波が来ているだけだろう。だけど、手が動かない。僕も長年漫画家をやってきて、こういうときは何度もあった。だからなんとかネームを絞り出すことはできる。
だけどその絞り出したもののクオリティが、いつになく低い気がする。今の編集さんはそこそこのベテランで、永井さんほどじゃなくても僕のことをよく知っている人だ。
その人から「もう一度描きなおしましょうか」と言われることが、思ったよりもこたえた。つまり今は、二度目のネーム作業だ。
ついでに締め切りは本日の午前中。
「はー……」
とはいえ、泣き言を言っていても始まらない。僕は無理にでもコマを割ってページを埋めた。自分でも分かるくらいやり方が分からなくて笑えない。僕は漫画が下手だ……。
絞り出した最悪の出来のネームを送る。ファイルの送信を確認した後、頭を抱えながらベッドに入って、うじうじと枕へ頭をこすりつけた。
こんなことじゃ圭人くんに顔向けできない。圭人くんは僕の恋人だけど、漫画家としての僕のファンでもある。
漫画家としての僕に失望されたらどうしよう。いや、今更そんなことで別れるとかは絶対ないと思うけど、漫画家であることは僕の大事なアイデンティティだ。
その漫画家としての僕を圭人くんが好きなままでいてほしい。僕を全肯定してほしい……。
「いや、ダメだ!」
頭がよくない方向に考え始めたから、僕は跳ね起きて叫んだ。こんなことをしている場合じゃない。
せっかくだし、SNSの更新でもして気を紛らわそう。いそいそと紙を引っ張り出して過去の連載作品のキャラクターを落書きしていると、あれ、と思った。
頭のかたちがおかしい。人体の比率ってこれで合ってたっけ? 関節が骨折していないか?
「絵が……下手!?」
僕は愕然とした。ペンがぽろりと手から落ちる。慌てて過去の単行本を引っ張り出して確認した。
「昔の方が……絵が上手い!?」
いや、下手なんだけど、絵がいきいきしている気がする。魅せる画面構成になっていて読みやすい。漫画として面白い。
それに比べて今の僕はなんだ。
拙いコマ割り。バランスのおかしい絵。つまらない漫画……。
僕はふらふらと圭人くんの部屋に向かった。圭人くんのベッドへ勝手に横たわり、しくしくと自己憐憫に浸った。
そうしている間に眠くなって、目を閉じる。
「遥さん。遥さん?」
はっと身体を起こすと、部屋は薄暗くなっていた。少しくたびれた顔の圭人くんがベッドサイドにしゃがんで、僕に視線を合わせている。
「何かあったんですか?」
「ん。なんでも……」
言えない。まさか、僕の描く漫画がつまらなくなってしまっただなんて……。
圭人くんは上目遣いに僕を見上げて「ほんとうに?」と問いかけてきた。
僕はそっと目をそらして、首を横に振った。
「なんでもないよ」
「聞きましたよ。スランプ気味だって」
なんでそれを。僕が圭人くんを見つめて口をぱくぱく開け閉めしていると、圭人くんはきゅっと口元を引き結んだ。
「遥さんの担当編集が言ってました」
「あ、そっか。同じ編集部か」
「そうですよ。遥さんの担当と俺は、同じ編集部にいます」
すごく当たり前のことだ。それくらいの情報共有はしていてもおかしくない。
僕はタオルケットをかぶって顔をかくした。
「ごめん……」
「なんで?」
「漫画がつまらなくて……」
ぐるぐる考え込んでしまう。圭人くんが漫画家の野木遥に失望したらどうしよう。気を遣って「面白い」って言われるようになったら終わりだ。
圭人くんがみじろぎをする気配がして、頭に何かが置かれる。圭人くんの掌だ。
わしわしと頭を撫でられて、ほんのちょっとだけ顔を出した。
「がっかりしない?」
「なんですか。俺はとっくに野木遥へ失望しとります」
「えっ」
そういえばこの人、自称僕のアンチだった。だけど今のはちょっとクリティカルヒットだ。うつむくと、圭人くんに引っ張り出されて抱きしめられる。
「それでも俺、野木遥の漫画を読み続けましたよ。おじさんに裏を取ってもらってもかまいません」
「なんで読み続けてくれたの?」
「野木遥の漫画が面白いからです」
よく分からない。首を傾げると、圭人くんがベッドへ乗ってきた。そのまま横になる。
「話くらいなら聞きます。助けになるかは分からないけど」
僕は言葉に甘えて、一緒に横たわった。抱き着いて「疲れた」と泣き言を言う。
「漫画が下手になっちゃった」
「そうですか? 相変わらず上手いですよ」
「絵も下手だし……」
「絵を描く人ってみんなそう言いますよね。俺には信じられん話だけど」
「スランプしんどい」
「ん。しんどいですね」
圭人くんは僕の背中を叩いて、なだめてくれる。
「でも俺、遥さんのデビュー作でファンになったんですよ。デビュー当時と比べて、今の遥さんはどうです?」
「いやさすがにあの頃よりはマシ」
それは即答できる。あの頃は何もかもが拙くて、若さの勢いしかなかった。
つまり僕に足りないのって勢いなんだろうか。しおしおとうなだれると、「そうだに」と圭人くんは甘ったるい声で言った。
「俺が野木遥にムカついてたの、デビュー作がすごくよかったのに、どんどん商業主義に染まっていったからなんですよ」
そこから圭人くんは、嬉々として僕の「悪口」を言った。
「技術が多少拙くてもメッセージが明確なデビュー作と比べて、なんですかあの初連載作は。娯楽全振りで、全然俺の好きになった野木遥じゃなかったんですけど」
「永井さんと話し合ってああなったの。でもがんばったんだよ」
「でしょうね。チューニングが完璧でマジ腹立ちました。それでどんどん売れっ子になって技術もあがっていって、なんですか。俺が好きなのは初期の野木遥のはずなのに、その面影が薄れるくらい別物になっていって」
「嫌だった?」
「嫌でした。最初に俺が好きになった野木遥よりずっとすごくなっていって、俺が何を好きなのか忘れさせられそうになった」
すごい。悪口風なのに全部褒め言葉だ。僕は「ひどいなぁ」と白々しく傷ついたふりをして、圭人くんにキスをねだった。圭人くんは僕にキスをしながら、「だけど」と続けた。
「俺にとっての原点は、デビューした時の野木遥なんです。その時と比べたら、今の野木遥なんか全然別物で話になりませんよ」
つまり、こういうことだ。
「圭人くんって、僕の漫画が本当に好きなんだね」
「あ。やっと分かってくれました?」
そちらも白々しく言うものだから、僕はおかしくなってキスをした。
二人で食事も忘れていちゃいちゃした。
僕の提出したネームはオーケーをもらい、そのまま作画作業へ入ることになった。
なんだかんだと、順調に行っている。今度のスランプも、きっと無事に乗り越えられる。
そう思っていた。
圭人くんが担当した漫画家――壁谷稔さんの漫画を読むまでは。




