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そういう気分でもない日

 圭人くんが引っ越してくる日がいよいよ近づいてきた。

 物置にしていた部屋の荷物を整理して、そこを圭人くんの部屋にする予定だ。


 金曜日の夜、いつも通り圭人くんがやってくる。

 僕が買ってきた食材で、いつも通りご飯を作ってくれた。食べ終わったら二人でお皿を洗って、いつも通り少しソファでいちゃつく。

 身体を擦り合わせて、手をつなぐ。唇を合わせたら頬ずりをして、首筋に鼻を押し付けてにおいを嗅ぐ。


「ちょっと、遥さん」


 圭人くんは嫌がるけど、僕はこれが好きだった。外のにおいと、ちょっと蒸れた圭人くんのにおいが好き。

 本当に怒られる一歩手前まで首に懐いて、またキスをした。

 だけど今日はちょっと、圭人くんの反応がにぶい。いつもだったら僕のお尻を撫でてちょっかいをかけてくるのに、僕の腰を抱き寄せて背中を叩くだけだ。

 やらしいことをしてほしくて、無言だけど上目遣いで「やらしいことをしてほしい」と訴えかける。だけど圭人くんは困ったように笑って、僕の背中をさするだけだ。

 もしかして、気分じゃないんだろうか。


「……したくない?」


 恐る恐る尋ねると、圭人くんはあいまいに微笑んだ。


「すみません。今日は仕事が忙しくて、疲れちゃって」

「そっか」


 それなら仕方ない。疲れている圭人くんに無理強いはしたくない。

 仕方ないけど、少し寂しい。

 圭人くんの膝から降りようとすると、腰にがっしりと腕が回った。


「すみません。しばらくこのままで」


 強く抱きしめられて、首筋に圭人くんの顔が埋まる。

 そのまま思い切り鎖骨のあたりを吸われて、身体が固まった。


「いいにおいがする」


 うっとりと言われると、どうしたらいいのか分からない。どぎまぎして、茶化すみたいなことしか言えない。


「か、加齢臭とかじゃなくて?」

「遥さん、まだそんな年でもないら」


 三河弁だ。いつもより声色がちょっと弱くて優しい。

 その声にどきどきしていると、圭人くんが「あー」とおじさんみたいな声を出した。


「いやされる……」


 しみじみとした口調で言われて、思わず圭人くんの背中にしがみついた。

 圭人くんの役に立っているなら嬉しいけど、これはちょっと、だいぶ、恥ずかしい。


「け、圭人くん……」


 おそるおそる手を伸ばして、頭を撫でてあげる。圭人くんは僕の肩口に顔をうずめて、ぐりぐりと身体をこすりつけて甘えてきた。


「マッジで、新しく担当した作家さんが、話通じんくて」

「うん」

「直してくださいって言ったとこが直っとらんならまだいいんです。このままでって指示したところが大幅に変えられてるわ、それを指摘したら逆切れされるわ、俺根気い……」

「大変だね」


 そのうちのいくつかは僕もやらかしたことがあった。今思えば、永井さんはよく付き合ってくれたものだ。


「……引っ越しの作業、大変? 延期する?」


 そんなに仕事が忙しいなら、こっちに越してくるのはもう少し延期した方がいいんじゃないだろうか。そう提案すると「やだ」と圭人くんは僕を抱きしめた。


「遥さんと一緒の家に住む……」


 こうも駄々をこねられると、かわいいを通り越して愛しさで頭が爆発する。いやらしいことをしたくなる。

 でも我慢だ。今日の圭人くんは恐ろしく疲れているし、いつも通りの……そういう……濃厚なことはできない。

 僕はいやらしい気持ちを抑えつけて、圭人くんの頭をよしよしと撫でた。


「がんばったね」

「うー……」


 よっぽど参っていたらしい。圭人くんは僕を抱きしめて離さない。

 こうしていてもらちが明かない。僕は圭人くんの背中を叩いて「もう九時だよ」と促した。


「今日は早めにお風呂入って、早めに寝ようよ」

「……はい」


 しぶしぶと言わんばかりの苦い表情で圭人くんが僕から離れる。

 そのままよろよろとお風呂場に向かっていくから、僕も一緒に歩いていった。


「今日のお風呂掃除、僕がやるよ」

「遥さんが?」


 ちょっと驚いた顔をするけど、うん、と頷く。


「今日の圭人くん、すごく疲れてるみたいだから。僕がやるよ」

「でも……」

「心配だったら見てて」


 僕はそう言って、意気揚々と浴室のドアを開けた。

 圭人くんは僕に「洗剤はそこまでで大丈夫です。付けすぎです」とか「すすぎ残しがこっちに」とか助言をしてくれた。おかげでバスタブは綺麗になり、その輝きに僕は額の汗をぬぐった。全身びちゃびちゃだ。


 バスタブに栓をしてお湯を張る。びちゃびちゃのまま脱衣所に戻ると、圭人くんがタオルを構えて待っていた。

 服の上から僕を拭きながら、圭人くんは僕が愛しくてたまらないという顔をする。


「お風呂、遥さんが先にどうぞ。俺は後から入ります」

「うん」


 濡れた服が気持ち悪い。裸でいて風邪を引くような気温でもないから、もう服は脱いでおく。

 圭人くんは僕の身体からそっと目をそらして、脱衣所を出ていく。


「お風呂上りのお茶、用意しておきます」

「うん」


 そういう日もある。

 歯を磨いた。中途半端にお湯のたまったバスタブに使って身体を洗った。お風呂から上がると圭人くんがやってきて、髪の毛を乾かしてくれる。

 手つきの心地よさにうっとりしているうちに髪が乾いて、交代で圭人くんがお風呂に入る。

 リビングに戻ると、一杯のコップにお茶がなみなみと入っていた。それを一気に飲み干して、仕事部屋兼寝室に戻る。デスクに向かって作業を少しでも進めておく。

 お風呂から上がってきた圭人くんがやってきた。


「何してるんですか?」

「今度出す同人誌の原稿」

「ふーん……」


 モニターに映し出された作業中の画面に、圭人くんが釘付けになっている気配を感じる。

 それが少し気に食わないような、それとも嬉しいような。

 複雑な気持ちになっていると、アラームが鳴る。そろそろ寝る時間だ。


「寝ましょう」


 圭人くんに促されて、僕はデスクから離れる。同じベッドに入ると、圭人くんに抱きしめられた。


「……その、しないんだよね?」


 どぎまぎしながら尋ねると「んー……」とあやふやな返事があった。


「したいですか?」

「ん……したいけど、圭人くんがしたい気分じゃないなら、したくない」

「分かりました。じゃあ今日は、これだけで」


 額にキスされる。抱き寄せられて、何度か背中をぽんぽんと叩かれた。

 あやすような手つきに、むらむらよりも愛おしさと安心感が勝ってくる。圭人くんの動きがだんだんゆっくりになってきた。

 すう、と寝息が聞こえる。圭人くんは寝落ちしたみたいだ。

 僕はそっとその腕の中にもぐりこんで、圭人くんの胸のにおいを肺いっぱいに吸い込んでみた。とろりと脳みそが安心でとろけて、あっという間に眠りに落ちる。


 目覚めてからの圭人くんはすこぶる元気だった。

 なので昼間からそういう行為に及んでしまった。いいことだと思うけど、僕はもうちょっと体力をつけた方がいい。圭人くんと同じくらいは無理でも、もうちょっとくらいは一緒に楽しんでみたい。

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