十一
六-十一
小雨はいつしか上がり、空が明るくなって、丘の上に被っていた霧も晴れつつある。
「無駄じゃろうが、会うてみるかい。お人違いなら、さっさと消えることじゃ。」
つぶやきながら西方に向かって歩く。あわてて後ろに付くと、二人の子供も面白がって付いて来る。
丘の登り口に差しかかり、幹が一抱えほどある栗の木が目に入った。
来る時は動転して見落としていたが、半年前に音根と植えた場所に。
海に入って五日しか経っていないのに……。もしも栗の木があの苗木なら、何十年も過ぎて帰ったことになる。だとしたら家や人が変わっていても、仕方ないだろう。
この不可解な事実のつじつまが合い、弥恵の言う音根が婆さんであっても、当然のことだ。
「おう、立派な栗の木がある。さぞ旨い栗が実るじゃろうな。」
子供達に持ち主を聞こうと振り返ると、弥恵から思わぬ返事が返った。
「この栗はなあ。ずっと前じゃが、これから行く音根さんが世話しとったと聞いた。元気な頃は、毎日ここに来ておったそうな。」
頭の中に激震が走った。あの栗の木は音根の母親を埋葬した翌日、供養のために二人で植えた苗木に違いない。
それにしても海に入って帰ると、何十年も経っているなんて、どういう運命の悪戯か。栗の木に気付かされた目で、もう一度、辺りの景色を見てみる。
丘の上り口には、身長ほどの石垣が積まれているし、浜は小石が混ざり、海に入る前のサラサラした砂ではない。
相当な年月が過ぎていることを、変化の少ない自然が物語っている。時の流れが地上と海底で、こんなにも大きいとは……。
ショウが言った「地上が酷い仕打ちをする。」とはこのことか。乙姫もゼクスでさえも、これには触れなかったのに。
はやる心で帰って来たのに、母や妹、村の衆が遠い昔の人になっているなんて……。
身体の中を、一陣の冷たい風が吹き抜ける。寂しさと空しさが腹から込み上げ、眼の奥とノドが熱くなる。
皆の反対を押し切って海に入ったことを、今さらではあるが悔んだ。
長い時を経て帰ったのなら、音根は老いている。もうオラのことなど、とうに忘れているだろう。だが会って確かめたいことが、山ほどある。音根が本人なら、唯一の頼みなのだ。
浜の中央付近に来た時、二人の子供が「亀はここへ上がった。」と指さしたが、弥恵はうなずいただけで、関心を示さなかった。
まだ自分のことを、伝え話を利用して金品を要求する不届き物と、疑っているらしい。子供は丘を駆け上って姿を消した。
「あの家じゃ。もう身体が弱って寝たきりじゃが、気は丈夫じゃ。」
弥恵が指さす方向に、あの時より数少なくなったが、松の防風林が連なっている。
その向う側に、茅葺き屋根の家がある。近所の家々と比べても、ひと回り大きな造りだ。
---あの家に、音根が住んどるんか。
期待と不安で胸が震える。
「ごめんよ、次郎さん。珍しいお客を連れて来たぞ。」
弥恵の声で、次郎と思われる中年の男が出て来た。弥恵と何やらヒソヒソ話した後、中へ入るよう手招きする。
薄暗い玄関から、さまざまな農具を立て掛けてある土間を通り、離れの座敷に案内された。
日当たりのよい部屋に入ると、白髪の老婆が布団で寝ていた。
「太郎さんが会いたいと言う、音根婆さんじゃ。今は寝とるで、起きるまで待ってくだされ。」
老婆が目覚めるまで、しばらく隣の部屋で待つことになった。いい暮らしをしているし、家人の扱いもよさそうだ。
出された茶をすすりながら、一刻も早く目覚めて欲しいと、あせる心を抑えながら待つ。
庭でスズメのさえずりが聞こえる。見るとエサをついばむ親スズメに混じって、数羽の子スズメが地を転がるように戯れている。
音根と丘や浜を走り回った、幼い頃の想い出が脳裏をよぎる。
自分にとっては十数年前の懐かしい想い出だが、音根にはもっと遠い大昔の話になるだろう。それでもいい、音根が本人であってくれれば。
取り返しのつかない運命に、また身震いする。
「目が覚めましたで、こちらへ。」
次郎に案内され、老婆の枕元に座った。どんな展開になるのか……鼓動が激しく胸を叩く。
「誰じゃな。」
老婆が薄目でこちらを見る。旅の若者の姿が目に入ったのだろう、小さく笑みを見せて、しわがれた声でたずねてきた。
「旅のお人か。私にご用か。」
目も耳も確かだと聞いたが、過ぎ去った時はあまりにも長い。大海亀に乗って出発した時と、同じ衣装で帰ったが、老婆は覚えていない様子だ。
---やっぱり駄目じゃ。
目の前の老婆が音根という確証はないし、たとえ本人であっても覚えていないだろう。頭の中が真っ白になり、目まいさえ覚える。
唯一の望みが音を立てて、はかなく崩れていく。
歯を食いしばって涙をこらえていると、布団の中から細い右手が、ぎこちなく伸びてきた。
「もしや、太郎さん。」
驚いた……なんて、そんなものじゃない。眩しい光を正面から浴びた以上の、強い衝撃を受けた。




