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六-九
「海底では五日という設定ですが、地上では五十年が過ぎました。だから地上に帰った太郎の身体は、この時差を取り戻すために、一日で十歳ずつ加齢します。」
「なんだって。二十三歳が、明日は三十三歳、あさっては五十三歳に……それは余りにも……惨いだろう。」
時の違いだけと思っていたトポスは、急に太郎を案じる心境になって声が沈んだ。
シオンがリュウビに詰め寄る。
「ちょっと待ってください。私達は太郎の鯛漁と、鯛釣り塾を阻止するために地上から隔離しただけです。その太郎が他の生き物と共存していく考えを、この海底で学びました。」
マイスも叶わぬ事とは分かっているが、わずかな期待を持って、相談を持ちかける。
「地上に帰ったら、ゼクスの子孫として、他の人間たちに伝えることができます。何も知らずに海底に誘い込まれた太郎が、リュウビ様の究極の目的を受け継いだのです。何とか助けてやれないものでしょうか。」
トポスは、顔を真っ赤にして詰め寄る。
「このまま朽ち果てさせるのは、実に惜しい。太郎を助けて、人間社会の未来を託すという妙案はないのだろうか。」
じっと鏡を見つめていたリュウビが、クルリと向きを変えて、輝く屋敷を仰いだ。
「かわいそうですが、これは自然の摂理。私の力ではどうする事もできないのです。」
海面が近くなったのか、辺りがほんのり明るくなってきた。目を凝らすと、はるか頭上に淡い陽光の筋が見える。地上はもうすぐだ。
「無事に帰って来れたんじゃ。母っちゃん、梓、音根は、どんな顔するじゃろうか。」
数々(かずかず)の体験を思い返しながら、じわじわと近づく海面の光の筋を、心踊る気持ちで眺める。
「太郎様、この話はしないと約束しましたが、もう一度だけおたずねします。龍宮に引き返しませんか。」
「母ちゃんと音根に約束したんじゃ、必ず五日で家に帰ると。」
「お気持ちは、変わりませんか。」
もうすぐ我が家に着いて村の人々と再会する喜びが、弾けんばかりに膨らんでいる。
はやる気持ちに水を差す、ショウの言葉が再び引っ掛かってきた。
「ここまで帰って、決心が変わる訳ないじゃ。故郷が酷い仕打ちをするとか言うたんは、誰ぞの身に何かあったんか。」
「いえ、太郎様ご自身のことです。海を出られたら、非情な運命が待っているとお考えください。太郎様、まだ引き返せます。」
「気持ちは変わらん。」
ショウは、説得をあきらめた様子だ。
「そうですか。残念ですがお別れです。海から出られると、元の人間の体質に戻って二度と海の中には入れません。そろそろ地上です。」
ザザーと波がしぶきを立てて、浜まで二丁ほど手前の海面に出た。
「おお、地上じゃ。すげえ久しぶりに帰ったようで、懐かしいじゃ。」
その海上も地上も、あいにくの小雨模様だ。正面に広がる小高い丘は、上半分が霧に覆われているが、ふもとは雨に煙っているものの、木々の緑は見える。
あちこちで鳥達が飛び交っている見慣れた景色だ。
「帰って来たじゃ。あの木、この海、オラ達の命を支えてくれる宝物じゃ。大事にせにゃならんぞ。」
海に入る前は鯛漁に熱意を注ぎ、どの鯛漁師より数多く釣って、売りさばくことを誇っていた。だが今は違う。
海底で暮らした五日間で、人間の行動や考えが、他の生き物の脅威になっていることを、ゼクスから学んだ。
もう漁師は辞める。これからは自然と人間の正しい関係を、人々に伝えながら音根と各地を歩くのだ。
目の前に広がる景色を眺めながら、ゼクスや乙姫に教わったことを反すうしていると、浜に着いた。
砂浜に上がったショウは、ゆっくり海の方に向き直して身体を低くした。
「到着です。足許にお気を付けて、お降りください。」
浜の砂に足を下ろすと、湿った砂に少し足が埋もれて快い。トントンと砂の上で跳ね、二度三度と深呼吸をした。
何不自由なく過ごした海底だったが、やっぱり地上は理屈抜きで気持ちが和む。
小雨を揺らす風が顔を撫で、無事の帰還を祝ってくれている。
地上に帰るか海底で永住するか、あの時は迷い苦しんだが、やっぱり帰って良かった。
「ショウさん、引き返さんで悪かったな。海底の国は素晴らしい所じゃった。オラはもう海には入れんが、いつかどこかで会いたいものじゃと、乙姫様や皆さんに伝えてくれるか。」
「承知しました。それでは失礼いたします。」
ショウは、打ち寄せる波を掻き分けて海に入り、まっすぐ沖に向かう。
「ショウさん。また会おうぞ。チャコにも会いたいで、連れて来てくれぇー。」
抱えていた二つの手箱を足許に置き、両手を振りながら海に入った。腰まで浸かって遠ざかるショウに叫んだが、ショウは一度も振り返ることなく波間に消えた。
波の音や鳥達のさえずりを聞き、雨や風を感じるのは地上ならではの喜びだ。
大きく息を吸って、まずは家族が待つわが家へ……。
手箱を抱えて立ち上がった瞬間、一歩も進むことなく足が硬直し、背筋が凍り付いた。




