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帰宅して、鞄を置いて、いつも通り手を洗う。
特別な日じゃない。
夕飯の匂いがして、テレビがついていて
悠さんがソファに座っている。
「おかえり」
「ただいま」
声が少しだけ上ずっている気がする。
食事中は何も言わない。
仕事の話をして、ニュースに軽く文句を言って
洗い物をして。
日常はちゃんと進む。
でも胸の奥に、言葉が溜まっている。
お風呂を済ませて、布団に入る。
静か。
「悠さん」
「ん」
いつもの返事。
そこで一瞬、迷う。
まだ言わなくてもいい。
でも、言いたい。
「この前の話なんですけど」
「どれ」
「……子どもの話、」
隣が少しだけ動く。
深呼吸する。
心臓が速い。
「私、覚悟は……まだないです」
正直に言う。
「仕事も、まだ自信ないですし」
否定されても仕方ない。
でも。
「でも」
声が小さくなる。
「欲しいです」
暗闇の中で、沈黙が落ちる。
怖い。
次の一言が怖い。
「……そうか」
悠さんの声は、低くて、穏やかだ。
責めない。
急がない。
「欲しいって、思っていいんだなって」
続ける。
「今日、やっと思えました」
何かがほどけたことを、そのまま伝える。
「ちゃんとできるかは分からないです」
「うん」
「でも、欲しいです」
二度目は、少しだけはっきり。
布団が揺れる。
腕が伸びてくる。
静かに、抱き寄せられる。
「俺も」
短い。
それだけ。
でも重い。
胸の奥が、じわっと温かくなる。
「焦らなくていい」
悠さんが言う。
「でも、やるなら一緒に踏み出そう」
その言葉で、力が抜ける。
一人じゃない。
覚悟が完成していなくてもいい。
二人で持てばいい。
朱里は、そっと腕を回す。
暗闇の中で、呼吸が重なる。
まだ何も始まっていない。
でも。
もう止めない。




