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翌朝、目が覚めた瞬間に思い出す。
欲しいと言った。
ちゃんと、自分の意思で。
隣を見ると、悠さんはまだ寝ている。
静かな寝息。
その顔を見ながら、考える。
踏み出すって、何だろう。
言葉は軽い。
でも中身は、たぶん軽くない。
避妊しない、ということ。
それは分かる。
でも、それだけでいいんだろうか。
スマホを手に取る。
「妊娠 準備」
検索欄に打ちかけて、少し止まる。
基礎体温。
葉酸。
排卵日。
冷え。
カフェイン。
やることがたくさん出てくる。
やった方がいいこと。
やめた方がいいこと。
急に、やるべきことリストが頭の中に並ぶ。
母になるって、準備がいるはずだ。
ちゃんと迎えられるように
整えておくべきなんじゃないか。
「起きてるのか」
隣で声がする。
「はい」
「早いな」
「ちょっと考え事を」
横になる。
「踏み出すって、具体的に何するんでしょう」
悠さんは少しだけ考えて、
「何もしないことだろ」
「何もしない?」
「避妊しない。それだけ」
あっさりしている。
拍子抜けするくらい。
「基礎体温とか、測った方がいいんじゃないんですか」
「測りたいなら測ればいい」
否定しない。
でも、積極的でもない。
「そんなに管理するもんか?」
「出来るなら、早いほうがいいかなと」
言ってから、自分で驚く。
もう“出来る前提”で話している。
悠さんは少しだけ笑う。
「出来るときは出来る」
簡単に言う。
研究室でデータを待つみたいな口調。
条件が揃えば、結果は出る。
そういう考え方。
間違ってはいない。
でも、私は。
出来たときに慌てたくない。
身体も、心も。
整えておきたい。
「じゃあ、私はちょっと調べます」
「無理するなよ」
それだけ。
止めない。
命令もしない。
ただ、同じ方向を向いている。
たぶん。
踏み出すって、
同じ方向を見ること。
やり方は、少し違っても。
スマホの画面を開く。
基礎体温アプリのダウンロードボタンが光る。
少しだけ、指が震える。
母になる準備なんて、まだ出来ていない。
でも。
欲しいと思った、
その気持ちは本物だ。
悠さんは「いつでもいい」と言う。
私は「迎えられるようにしたい」と思う。
少しずれている。
でも、同じ未来を見ている。
それで、いいのかもしれない。
ダウンロードを押す。
小さな音が鳴る。
まだ何も始まっていない。
でも、確かに何かが動き始めた。




