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帰りの電車は、いつもより空いていた。
窓に映る自分の顔が、少し疲れて見える。
先輩の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
可愛いだけじゃない。
中途半端な覚悟じゃきつい。
その通りだと思う。
自分はまだ未熟だ。
仕事も、やっと慣れてきたところ。
母になる準備なんて、できているとは言えない。
それなのに。
スマホを開くと、澪花ちゃんの写真が目に入る。
遥花さんが送ってくれた、寝顔。
小さな口が少し開いている。
指が、きゅっと握られている。
自然と、口元が緩む。
なんでこんなに、嬉しいんだろう。
理屈で考える。
可愛いから。
友人の子だから。
でも、それだけじゃない。
胸の奥が、じんわり温かい。
怖さもある。
責任も重い。
でも。
欲しい。
思ってしまう。
すぐに、理性が否定する。
まだ早い。
ちゃんと考えなきゃ。
中途半端はだめ。
でも、そこでふと気づく。
欲しいと思うこと自体を、ずっと自分で止めていた。
まだ早いから。
未熟だから。
覚悟が足りないから。
でも。
覚悟って、最初から完璧に持っているものだろうか。
母だって、きっとそうだった。
完璧じゃなかった。
余裕もなかった。
それでも、育ててくれた。
あのときの母に、準備万端の覚悟があったとは思えない。
それでも、私を選んだ。
電車が揺れる。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
欲しいって、思っていいんだ。
完璧じゃなくても。
怖くても。
未熟でも。
欲しいと思う気持ちは、間違いじゃない。
それを否定しなくていい。
小さく、息を吐く。
窓の外はもう暗い。
揺れに身を任せながら、そっと目を閉じる。
初めて、心の中で言う。
欲しい。
それを、隠さなくていい。




