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夜は少しだけ涼しくなる。
窓を閉めるかどうか迷うくらいの温度で、
リビングの空気は静かだった。
仕事は落ち着いている。
夏に詰めた分、今は整理と確認。追われる感じはない。
ソファに座って資料を眺めていたが
頭は半分しか働いていなかった。
キッチンから水の音がする。
振り向くと、朱里がマグカップを洗っている。
袖を少し折って、髪をひとつにまとめて
特に何も変わらない姿。
何も変わらないはずなのに、ふと引っかかる。
最近、触れてないな。
急に思う。
喧嘩したわけではない。
距離ができたわけでもない。
毎日顔を合わせて、同じ家で寝て、会話もしている。
でも。
最後に、意識して触れたのはいつだったか。
思い出そうとして、曖昧になる。
別に足りないと言われたわけじゃない。
朱里は何も言っていない。
困っている様子もないし、拗ねてもいない。
だから余計に、自分が油断していた気がする。
立ち上がって、キッチンに近づく。
狭い。
「邪魔」
いつもの言葉が出そうになるが、今日は言わない。
代わりに、腰に軽く手を置く。
ぴくり、と肩が動く。
「……どうしたんですか」
振り向いた朱里が、くすくす笑う。
困っている顔じゃない。
ただ、少しだけ面白がっている。
その反応に、妙に安心する。
「別に」
言いながら、手を離さない。
思ったより、体温が近い。
「くすぐったいです」
「そうか」
言いながら、もう少し寄る。
抵抗はない。
朱里はスポンジを置いて、自然に体を預ける。
それが当たり前みたいに。
そこで、分かる。
足りてなかったのは向こうじゃなくて、自分だ。
触れた瞬間に分かる違和感。
近いのに、どこか久しぶりな感覚。
「悠さん?」
名前を呼ばれる。
いつも通りの声。
でも少しだけ柔らかい。
「ん」
短く返して、額を軽く肩に押しつける。
朱里は何も聞かない。
何も言わない。
ただ、少し笑っている。
その静かな受け止め方が、余計に刺さる。
足りてなかった。
言葉も、距離も、たぶん。
結婚したから安心していた。
隣にいるのが当たり前になっていた。
でも、触れない時間が積もると、こんなに分かりやすい。
「……朱里」
名前を呼ぶ。
呼ぶだけで、喉が少し熱い。
「はい?」
「いや」
それ以上は出てこない。
朱里はまた小さく笑う。
「変な悠さん」
その言い方が、やけに優しい。
腕を回して、きちんと抱き寄せる。
今度は、はっきり。
軽くじゃない。
ちゃんと。
細い体が腕の中に収まる。
その収まりの良さに、また気づく。
足りなかった。
ただそれだけだ。
何も言われていないのに、十分伝わっている気がする。
朱里は何も言わない。
ただ、腕の中で少しだけ力を抜いている。




