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帰ってきた悠さんは、いつもより靴を脱ぐのが遅かった。
ドアが閉まる音も、少し重い。
「ただいま」
声が低い。
「おかえりなさい」
振り向いた瞬間、あ、と思う。
顔色が悪いわけではない。ただ、目が少し赤い。
「暑かったですか」
「いや、研究室寒い」
ネクタイを外す手つきが鈍い。
鞄を受け取ろうとしたら、「いい」と言われる。
珍しい。
「夕飯、すぐ出します」
「少なめでいい」
もっと珍しい。
テーブルに並べても、箸の進みが遅い。
「食欲ないですか」
「ある」
ある顔ではない。
お味噌汁を飲んで、少しだけ眉を寄せる。
「熱あります?」
「ない」
即答。
でも頬に触れると、少し熱い。
「ありますよ」
「ない」
子どもみたいな否定。
「測ってください」
「平気」
「平気じゃないから言ってます」
少しだけ空気が張る。
悠さんは黙って、箸を置く。
体温計を差し出すと、ため息をつきながら受け取る。
数十秒の沈黙。
ピ、と鳴る。
三十七度八分。
「あります」
「微熱だろ」
「立派に熱です」
立ち上がろうとする腕を押さえる。
「今日はもうやめてください」
「まだまとめてない」
「何をですか」
「資料」
「明日でいいです」
「明日使う」
短い押し問答。
睨むと、少しだけ視線を逸らす。
「……三十分」
譲歩の顔。
「十分です」
「三十分」
「十五」
「二十」
「…分かりました、二十分だけですよ」
変な交渉になる。
ソファに座らせて、膝にブランケットをかける。
「冷房弱めます」
「暑い」
「我慢してください」
ノートパソコンを開く指が、いつもより遅い。
画面を見つめている時間が長い。
五分もしないうちに、キーボードを打つ音が止まる。
「悠さん」
返事がない。
近づくと、目を閉じている。
「……横になれます?」
小さく声をかける。
肩に触れると、やっぱり熱い。
額に冷却シートを貼る。
眉間の皺が、少しだけ緩む。
こんな顔、あまり見ない。
強いわけでも、無敵なわけでもない。
ただの人だ。
「無理しすぎです」
聞こえていないだろう声で言う。
少しして、悠さんがうっすら目を開ける。
「……寝てない」
「寝てました」
「一瞬」
「一瞬でいいです」
ブランケットを直すと、指が掴まれる。
力は弱い。
「明日、起こせ」
「起こします」
「七時」
「分かりました」
目を閉じる。
今度は、すぐに呼吸が深くなる。
部屋は静かで、エアコンの音だけが続いている。
テーブルの上には、食べかけの皿。
まだ片付けていないけれど、今日はそのままでいい。




