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初出勤の朝、名札の文字を何度も見る。
神谷
まだ、少しだけ落ち着かない。
本館は思っていたより広かった。
静かなはずなのに、人の分騒めきがある。
返却カウンター。
予約本の処理。
利用者対応。
専門用語の嵐。
「覚えること、こんなにあるんですね……」
思わず漏らしたら、先輩が笑う。
「最初はみんなそうよ」
帰宅すると、もうくたくただった。
でも悠さんのほうが帰りは遅い。
研究職は四月が忙しいらしい。
エプロンをつける。
「おかえりなさい」が言いたい。
それだけで、少し頑張れた。
足が痛い。
書架整理って、思っていたより体力仕事だ。
「今日は簡単なものでいいですよ」と言われたのに
ちゃんと作ろうとしてしまう。
悠さんがネクタイを緩めながら言う。
「無理すんなよ」
「大丈夫です」
大丈夫じゃないけど。
でも、妻なんだから。
クレーム対応の見学。
「税金でやってるんでしょ?」という言葉が
思っていたより刺さる。
帰宅して、ソファに座ったまましばらく動けなかった。
気づいたら洗濯機が止まっている。
干してない。
慌てて立ち上がると、もう終わっていた。
「やっといた」
悠さんが、何でもない顔で言う。
胸が、きゅっとした。
四日目、遅番。
悠さんのほうがさらに遅い。
先に帰って、食材を切る。
包丁を持つ手が少し重い。
「私が頑張らなきゃ」
声に出してみる。
妻なんだから。
支える側なんだから。
限界が近かった。
鍋を作ろうとして、指を切る。
「あっ……」
小さな傷なのに、涙が出そうになる。
タイミングよくドアが開いた。
「何やってんだ」
「す、すみません……」
「なんで謝ってんだよ」
絆創膏を貼られながら、ぽつりと漏れる。
「ちゃんとしないと……」
「何を」
「妻なんですから」
言った瞬間、自分でも驚いた。
妻。
その言葉に、縛られていた。
悠さんは一瞬黙って、それから低い声で言った。
「俺は妻と結婚したわけじゃねえ」
顔を上げる。
「“朱里”と結婚したんだろ」
空気が止まる。
「家事が完璧なやつが欲しかったわけでも、
我慢強いやつが欲しかったわけでもねえ」
手を握られる。
「お前だけが、無理する必要ないだろ」
その言葉が、まっすぐ落ちてきた。
あ。
頑張らなくていいんだ。
疲れていても。
家事ができなくても。
ちゃんとできない日があっても。
私のままで、いいんだ。
涙が、ぽろっと落ちる。
「……すみません」
「だから謝んな」
呆れた声なのに、優しい。
「お前が頑張るのは仕事だけで十分だ」
「でも……」
「支えるとか背負うとか、まだ早えよ」
ふっと笑う。
「夫婦一年目だぞ」
その言い方に、力が抜けた。
泣きながら笑ってしまう。
「……悠さん」
「ん?」
「私、まだちゃんと“朱里”でいられますか」
「最初から朱里だろ」
胸の奥が、あたたかくなる。
四月の一週間。
社会人になって、妻になって、少し背伸びして。
でも最後に気づいた。
“神谷”になっても、私は私。
そしてそれでいいと、隣の人が言ってくれる。
それだけで、十分だ。




