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「それだけは、約束する」
そう言った瞬間だった。
朱里の指が、するりと離れた。
そして——
ぽたり。
一滴、落ちる。
「……え」
悠は固まる。
朱里が泣いている。
音もなく。
ただ、静かに。
「……おい」
動揺がそのまま声になる。
「ちが……泣くとこじゃないだろ」
朱里はぐっと唇を噛む。
それから、顔を上げた。
目が真っ赤だ。
「悠さんの、ばか」
いつもより少しだけ柔らかいはずの響きが、
今は刺さる。
「……は?」
思考が止まる。
「い、意気地なし」
泣きながら。
「な、なに言って——」
「頑張って言ったとに……」
震えながら続ける。
「怖かったとよ」
敬語が崩れる。
余裕も崩れる。
「それでも、隣におりたいって言ったとに」
悠の胸が、強く打つ。
「……朱里」
「私、」
涙が溢れる。
「悠さんのものに、なりたかと」
時間が止まる。
心臓の音だけが、やけに大きい。
「……っ」
かすれる声。
「悠さんの、ものに、なりたいと」
泣きながら、はっきり言う。
「覚悟しとるのに」
肩が震える。
「置いてかんでよ」
その言葉。
ずるい。
悠の思考が、真っ白になる。
“守る”
“焦らない”
“大事にする”
全部、正しいと思ってた。
でも今目の前にいるのは、
不安で揺れて、
それでも踏み出してきた女だ。
俺のために。
「……朱里」
朱里は逃げない。
涙のまま見上げる。
「俺のものになりたいとか」
低い声になる。
「そんな簡単に言うな」
震えを抑えながら。
「意味、わかってるのか」
「わかっとる」
涙のまま。
迷いなく。
その瞬間。
何かが、切れた。
理性が、音もなく弾ける。
悠は強く抱き寄せる。
さっきより、はっきりと力が入る。
「……後悔すんなよ」
「せん」
震えているのに、強い。
「俺、もう止まれないからな」
朱里の指が、悠の服をぎゅっと掴む。
「……いい」
小さく。
でもはっきり。
その顔。
涙で濡れて、
でも覚悟していて。
「……ほんと、ずるい」
悠は片手で涙を拭う。
優しく。
でも次の瞬間、深くキスをする。
逃げ道をなくすみたいに。
朱里が息を呑む。
でも、離れない。
むしろ、縋る。
それがもう、答えだ。
唇が離れたとき、
悠の目は完全に変わっている。
理性は、もういない。
代わりにいるのは、
選ばれた男。
「……朱里」
低く呼ぶ。
「俺のものになるなら」
額を寄せる。
「最後まで覚悟しろ」
朱里は涙のまま、笑う。
「うん」
その一言で。
悠の中の最後のブレーキが、完全に外れる。
腕の中にすっぽり収まる。
体格差が、はっきりする。
「……ちいさいくせに」
息が荒い。
「俺をここまで追い詰めるな」
朱里が顔を真っ赤にして、
「悠さんのほうが、ばか」
もう止まらない。
ゆっくり。
確実に。
距離を、ゼロにしていく。
震える朱里を見つめながら。
「もう、逃がさない」
低く。
熱を帯びて。
春の直前。
理性は、完全に消えた。
境界線シリーズでは唯一の上京組朱里。
湊の関西弁は父譲りのため、生まれはこっちです。




