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資料が見つからない。
棚番号は合っているのに
空白になっている背表紙の隙間を見つめて、息を吐く。
こういうときは潔く聞いたほうが早い。
カウンターに向かう。
「すみません」
声をかけると、静かに顔が上がる。
今日も同じ人。
別にそれ以上の感想はない。
「この資料、所在が出なくて」
メモを差し出す。
彼女は端末に目を落とし、すぐに答える。
「地下書庫ですね。お持ちします」
「あ、いや行きます」
思ったより早く口が動いた。
一瞬、目が合う。
驚いたような顔はしない。ただ、小さくうなずく。
地下へ続く階段は少し暗い。
足音がふたり分、重なる。
無言。
でも気まずくはない。
棚の前で彼女が止まる。
「こちらです」
手が伸びる。
その動きに合わせて、視線が下がる。
胸元の名札。
篠原。
黒い文字。
整った字面。
篠原。
ああ、そういう名前なんだ。
それだけ。
「ありがとうございます」
「いえ」
資料を受け取る。
指先が触れそうで触れない距離。
特に何もない。
彼女は先に戻る。
階段を上る足音が遠ざかる。
残された静寂の中で、ふともう一度思う。
篠原。
心の中で、無意識に読んでいる。
名前を知ったからといって、何が変わるわけでもない。
ただの図書館員。
ただの利用者。
それだけの関係。
席に戻り、ページを開く。
思考はちゃんと進む。
でも、さっき見た文字が、なぜか残っている。
閉館時間。
本を返却する。
カウンターの向こうで、彼女が受け取る。
「ありがとうございました」
いつもの声。
今度は、名前を知っている声。
それだけで、少し輪郭がくっきりする。
冷たい空気を吸い込む。
ただ読んだだけだ。
名札を。
それなのに、帰り道で思い出している。
篠原。
まだ呼ばない。
呼ぶ理由もない。
でももう、“図書館の人”ではなかった。




