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食卓の味噌汁はまだ湯気が残っている。
テレビの音が小さく流れる。
特に見るものもなく、箸を動かしながら画面を眺める。
向かいで朱里が茶碗を持ち上げる。
「そういえば」
何気ない声だった。
「明日、病院なので少し遅くなるかもしれません」
顔を上げる。
朱里はそのまま食事を続けている。
予定を一つ伝えただけの調子だった。
「ああ……」
反射的に頷く。
病院、という言葉だけが少し遅れて胸に残る。
——まだ、あるのか。
箸を止める。
採卵の日から、数日。
大きな山は越えたような気がしていた。
少なくとも、自分の中では。
だから次を聞いた瞬間、
どこか足場を外されたような感覚。
どんな流れだったか、
ちゃんと知らないことに気づく。
本来なら調べていたはずだった。
工程も、期間も、費用も。
分からないままにしておく性格じゃない。
なのに今回は、
調べようと思わなかった。
必要ない気がしていた。
踏み込む場所ではないような、
そんな感覚がどこかにあった。
朱里は味噌汁を飲み、
静かに箸を置く。
「終わる時間が読めなくて」
付け足すように言う。
説明ではなく、
ただの予定の補足だった。
美容院に行くとか、
仕事が長引くとか。
それと同じ重さの言葉。
二人のことのはずなのに、
自分は予定を聞いただけ。
置いていかれた、というほどでもない。
けれど、
最初からそこに立っていなかったような感覚。
朱里は立ち上がり、食器を持ってキッチンへ向かう。
いつもと同じ背中だった。




