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あの日から数日。
特別なことは何も起きていない。
朱里はいつも通り起きて
いつも通り朝食を作っている。
「コーヒー、少し薄めですけど大丈夫ですか」
「ん、平気」
会話も普通だ。
声の高さも、間も、変わらない。
あの夜のことには触れないまま
時間だけが進んでいく。
落ち着いたというより。
整っている、という感じだった。
朱里はよく笑う。
大きくはないけど、穏やかな笑い方。
泣いた痕も迷いも見えない。
それがかえって引っかかる。
隣に座ってテレビを見ていると、肩が触れる。
前と同じ距離。
でも、前と同じかどうかが分からない。
何度か名前を呼びかけ、やめる。
今じゃない気がする。
何を聞くんだ。
どうしたいか、
あの夜の涙の意味
それとも、もう一度やめるかと言うのか。
どれも違う気がして、言葉が浮かばない。
朱里は番組に小さく笑っている。
横顔は静かだ。
怒っているわけでも
無理しているわけでもない。
ただ、落ち着いている。
それを見ていると
自分だけが置いていかれている気がした。
聞けばいい。
そう思う。
でも、聞いた瞬間に何かが決まってしまいそうで。
まだ、決めきれていない自分がいる。
その事実が少しだけ情けない。
喉の奥まで出かかった名前を飲み込む。
代わりにリモコンの音だけが小さく響く。
何も変わっていないはずの部屋で、
あの夜だけが、まだ終わっていなかった。




