116
泣いた夜から数日。
ちゃんと朝は来るし、仕事にも行く。
生活は何も変わらない。
その週末、なぜか自然に「うち来ますか」と口にしていた。
言ってから、少しだけ驚いた。
でも、取り消さなかった。
夕方、インターホンが鳴る。
ドアを開けた瞬間、
澪花ちゃんが勢いよく飛び込んでくる。
後ろから湊さんが「すみません」と笑いながら入ってくる。
悠さんはリビングにいて、立ち上がる。
「久しぶり」
湊さんと軽く肩を叩き合う。
その自然さが、少し眩しい。
澪花ちゃんは部屋を探検し始める。
ソファによじ登り、クッションを落とし
テーブルの下に潜る。
「澪花」と、悠さんが低く呼ぶ。
澪花ちゃんは一瞬止まり、でも笑って逃げる。
そのやりとりが妙にしっくりくる。
ダイニングの椅子が一つ足りなくて、
ソファが少し狭くて、
部屋がちゃんと“使われている”。
悠さんは湊さんとダイニングで話している。
仕事の話をして笑っている。
でも、視線は時々こちらに向く。
澪花ちゃんが私の膝に乗ってくる。
「ここ、あかりちゃんのおうち?」
「そうだよ」
「またきていい?」
疑いのない声。
未来を疑っていない声。
「うん、いつでも」
答えると澪花ちゃんは満足そうに笑う。
その横顔を悠さんが見ている。
ほんの少し、目が柔らかい。
夕方が終わる。
玄関で「またね」と手を振る。
ドアが閉まる。
鍵の音がやけに大きい。
振り返ると家が急に広い。
さっきまであった笑い声が壁に吸い込まれている。
空気だけが、まだ少し温かい。
何かが、
足りない。
リビングで立ったまま動けなくなる。
さっきまで確かに満ちていた。
それが、嘘みたいに消えてしまった。
クッションが床に落ちている。
テーブルの下に、小さな靴下が片方。
おもちゃのブロックがソファの隙間に挟まっている。
ついさっきまでこの部屋はぎゅうぎゅうだった。
今は、広い。
「片付けるか」
悠さんが言う。
いつも通りの声。
しゃがんでブロックを拾う。
小さな、軽いプラスチック。
さっきまで澪花ちゃんが握っていたもの。
この家に似合っていた。
あの笑い声が。
あの足音が。
自然だった。
なのに今は元通り。
元通りなのに、足りない。
ブロックを箱に戻す。
カチ、と乾いた音がする。
その音がやけに響く。
喉の奥がじわっと熱くなる。
だめ。
まだ一回目。
まだ若い。
次がある。
クッションを拾おうとして、手が止まる。
涙が落ちる。
ぽた、と床に落ちる。
気づかれないように袖で拭く。
でも止まらない。
背中を向けたまましゃがみ込む。
自分の家なのに、
完成していないみたいだと思ってしまった。
小さく息が漏れる。
肩が震える。
そのとき、後ろから体温に包まれる。
悠さんだ。
何も言わない。
ただ、抱き寄せる。
その瞬間こらえていたものが溢れた。
「……ほしいです……っ」
ためにためた言葉が嗚咽と一緒に、こぼれだす。
欲しい。
あの声が。
あの足音が。
この家に。
踏み出してからの時間も、
人工授精も、
うっすらの線も、
全部通ってきた上で。
はっきりと、欲しい。
腕の力が強くなる。
「……ああ」
低い声が、耳元で落ちる。
否定しない。
軽くもしない。
逃げもしない。
リビングは、静かだ。




