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帰り道でふと浮かんだ言葉が消えない。
必要がないなら、触れなくていいのだろうか。
人工授精のあと。
夜は関係ない。
タイミングもいらない。
医療に任せて、待つだけ。
それは合理的で、正しい。
でも。
ここ数日、悠さんが少し静か。
いつも通りだ。
会話もある。
仕事の話もする。
笑うこともある。
でも、
朝のあの一瞬。
抱きしめられたこと。
そして、自分が言った言葉。
「家の方がいいですか?」
「手伝った方がいいですか?」
あれは、正しかったのだろうか。
悠さんは、あのあと少しだけ目を逸らした。
ほんの少し。
気のせいかもしれない。
夜。
ソファに並んで座る。
排卵日でもない。
大事な時期だから触れない、という理由もない。
それでも、距離はそのまま。
私は、何を待っているのだろう。
「悠さん」
「ん」
視線はテレビのまま。
「……あの」
言葉を探す。
責めたいわけじゃない。
確認したいだけ。
「人工授精って、やっぱり少し楽ですか?」
「楽?」
「その……夜を考えなくていい、というか」
自分で言いながら、少し胸がざわつく。
悠さんがこちらを見る。
一瞬だけ、目が揺れる。
「どうだろうな」
すぐには答えない。
「楽、とは違う」
それ以上は言わない。
でも、
“違う”と言った。
私は、そこで気づく。
自分はどこかで、
“効率がいいならそれでいい”
と考えていた。
夜が不要になっても、
結果が出るなら、それで。
でも。
悠さんは、少しだけ違う顔をしている。
私は、探るみたいに手を伸ばす。
そっと、袖を掴む。
「……私は、楽になったわけじゃないです」
小さく言う。
本当だ。
効率的になっただけで、
何かが軽くなったわけじゃない。
むしろ。
空いた部分がある。
悠さんの指が、私の手に触れる。
握るわけでもない。
ただ、触れる。
それだけで、少しだけ息が戻る。
必要がないなら、触れなくていいのか。
そう思った自分が、
少しだけ怖い。
排卵でもない。
判定もまだ先。
それでも。
触れてもいい夜が、
まだあることを確かめたくなった。




