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何度も来ているはずの部屋なのに
今日は少しだけ空気が違う。
「では、処置しますね」
淡々とした声。
名前を呼ばれて、カーテンの向こうへ入る。
下着を脱いで、台に上がる。
慣れているはずの姿勢。
でも今日は、
少しだけ、意味が違う。
排卵日を数えなくていい。
間に合うか考えなくていい。
夜も関係ない。
全部、ここで済む。
「力を抜いてくださいね」
器具の冷たさ。
消毒の匂い。
天井のライトが、やけに白い。
これで、いい。
効率的で、合理的で、
きっと確率も上がる。
悠さんは、今どこにいるだろう。
待合室だろうか。
提出はもう終わったはずだ。
今日の役目は、それぞれ終了。
“それぞれ”。
ふと、その言葉が浮かぶ。
今までは、夜に一緒にいた。
同じベッドで、
同じ体温で、
間に合うかどうか考えて。
今日は違う。
私の身体に、医療の手が入る。
悠さんは、別の部屋で役目を終える。
受精は身体の中で起きる。
二人の触れ合いは、関係ない。
カテーテルが入る。
少しの違和感。
「はい、終わりましたよ」
数分。
あっけない。
こんなにあっけなくていいのだろうか。
脚を閉じて、ゆっくり起き上がる。
それだけで、もう次の人が呼ばれる。
流れ作業みたいだ。
悪いことではない。
感情が入り込む余地がないだけ。
待合室に戻ると悠さんが立ち上がる。
「どうだった」
「終わりました」
それだけ。
本当に、それだけ。
帰り道。
空は晴れている。
何も変わらない。
今日で、何かが大きく変わった気はしない。
ただ。
夜が、いらなくなった。
そう思った瞬間、
胸の奥が、ほんの少しだけ空く。
必要がないなら、
触れなくてもいいのだろうか。
そんなこと、考えるつもりはなかったのに。
人工授精。
進むための一歩。
それなのに、
どこかで、
二人で重ねてきた夜が、
静かに脇に寄せられた気がした。
まだ、壊れてはいない。
でも、
何かの形が、確実に変わった。




