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目は覚めていたのに、しばらく動けなかった。


人工授精の日。


洗面所に置かれた容器が、頭の中にある。


今日の役目は分かっている。


それでも。


隣で眠っている朱里を見て、衝動みたいに手を伸ばす。


肩を抱き寄せ体温が近づく。


朱里が、ゆっくり目を開ける。


「……おはようございます」


まだ眠い声。


そのまま、少しだけ強く抱く。


理由はない。


ただ、触れたかった。


朱里の体が、一瞬止まる。


ほんのわずか。


それから、少し迷うように言う。


「……やっぱり、病院じゃなくて家の方がいいですか?」


意味を理解するのに、一拍かかる。


「え?」


「その……緊張するかなって」


視線を逸らす。


「私、手伝った方がいいですか?」


真剣な顔。


心配している。


成功率のことを考えている。


少しでも条件が良いなら、と。


ただの抱擁を、


“採取のための準備”に変換している。


悪気はない。


むしろ気を遣ってくれている。


でも。


俺は、ただ抱きしめたかっただけだ。


人工授精の日だからじゃない。


出しやすいかどうかでもない。


それなのに。


俺の触れ方は、


もう“工程”として受け取られている。


胸の奥が、静かにきしむ。


「ああ……」


喉が少し乾く。


「いや」


短く言う。


「病院でいい」


それ以上、言葉が出ない。


朱里はほっとしたように頷く。


「分かりました」


悪いことを言った顔ではない。


ただ、前向きな顔。


進むための顔。


腕を離す。


「……支度するか」


それだけ言って、ベッドを出る。


洗面所に向かいながら、


さっきの一瞬を思い返す。


俺は触れたかっただけ。


でも、朱里にとっては


“出すため”の触れ合いになっていた。


いつからだ。


夜も、朝も、


意味がなければ触れなくなったのは。


進むと決めた。


人工授精も、二人で。


分かっている。


それでも。


今朝の抱擁が、


“手順外”だったことが、


思ったよりもきつい。


鏡の中の自分を見る。


今日は提出する日だ。


男として必要なのは、出すだけ。


そう言われているわけじゃない。


でも、


そう受け取ってしまった自分がいる。


進む。


それは間違っていない。


それでも、


何かを少しだけ、置いていく気がした。




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