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閉館十分前。


図書館の空気は、昼間よりも少しだけやわらかい。


人もまばらで

ページをめくる音だけが小さく響いている。


悠は席を立ち、本を抱えてカウンターへ向かう。


篠原はいつも通りそこにいる。


それだけでどこか安堵する自分がいることには

まだ気づかないふりをしている。


「返却、お願いします」


本を差し出す。


篠原は受け取り、バーコードを読み取る。


その一連の動きが、前よりも自然に目に入る。


手首が細い、とか。


指先が白い、とか。


余計なことまで見えるのは、たぶん気のせいだ。


処理が終わる、と思った瞬間。


「前回の資料、どうでしたか?」


不意に、篠原が言った。


悠は一瞬、目を上げる。


「……え?」


「先週、取り寄せされた分です」


淡々とした声。


でも、確かに覚えている。


自分が何を借りたか。


いつ来たか。


そこまで把握しているということに、わずかに胸が揺れる。


「ああ……」


思い出す。


専門書。少し難解な論文集。


「助かりました。探してた資料だったんで」


そう答えると、篠原は小さく頷く。


「よかったです」


その言い方が、業務の範囲を少しだけ越えている気がした。


ただの司書と利用者の会話なら、


“ご利用ありがとうございます”で終わるはずだ。


でも今は、


“どうでしたか”と、感想を聞いている。


悠は、ほんの少し迷ってから言葉を足す。


「思ったより読みやすかったです。解説が丁寧で」


自分でも驚くほど、普通に会話している。


篠原は興味深そうに首を傾ける。


「確かに、あの先生の文章は比較的読みやすいですね」


“あの先生”。


知っている前提の言い方。


つまり、彼女も読んでいる。


「読んだことあるんですか」


思わず聞く。


篠原は少しだけ笑う。


「少しだけ。専門ではないですけど」


ほんのわずかに、距離が縮まる。


業務の延長。


でも確実に、会話は広がっている。


悠は気づく。


返却処理は、とっくに終わっている。


それでも、二人とも会話を止めない。


不自然ではない。


自然すぎるくらい自然だ。


「……また、何かあれば取り寄せます」


篠原が言う。


“何かあれば”。


また来ることを前提にしている。


「お願いします」


悠は頷く。


短い沈黙。


でも、居心地は悪くない。


むしろ、少しだけ心地いい。


「ありがとうございました、神谷さん」


名前を呼ばれる。


その響きが、さっきまでよりも柔らかく聞こえるのは、気のせいか。


カウンターを離れる。


数歩進んでから、ふと振り返りそうになる。


しない。


代わりに、胸の奥が静かに温かい。


ただの返却。


ただの感想。


それだけなのに。


次に来る理由が、ひとつ増えた気がする。




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