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暑さは残っているのに、空気は少し軽い。
診察室の椅子は、もう慣れた。
「注射とタイミングで半年ほど経ちましたね」
半年。
そんなに経っただろうか。
「年齢的にはまだ焦る必要はありません」
そう前置きしてから、
「しかし、人工授精にステップアップする方も多い時期です」
人工授精。
単語だけが、少し浮く。
「もちろん、このまま続ける選択もあります」
穏やかな声。
急かされてはいない。
責められてもいない。
ただ、選択肢が増えただけ。
「……夫に、相談してもいいですか」
自分の声が思ったより静かだ。
「もちろん。ゆっくりお決めください」
診察室を出る。
待合室の椅子に座ると、指先が冷たい。
人工授精。
頭の中で言葉を転がす。
今までの夜が、少し遠くなる気がした。
排卵日を数えて、
間に合うかどうか考えて、
焦って、笑って、
「今週ですね」と言って。
あれは、二人でやってきたことだった。
人工授精になったら。
タイミングは、病院が決める。
受精は、身体の中で静かに起きる。
私たちは、ただ結果を待つだけ。
悪いことではない。
効率的で、合理的で。
きっと、前に進むための方法。
それでも。
胸の奥で何かが引っかかる。
「どうだった」
悠さんが聞く。
「……そろそろ、人工授精もって」
少し間。
「そうか」
それだけ。
「どうします?」
聞きながら、視線を上げない。
「朱里は?」
逆に返される。
答えに、少し迷う。
やりたい。
早く、結果が欲しい。
でも。
今までの夜が、消えてしまう気がする。
意味を背負っていた夜が。
「……夫と考えます、って言いました」
少しだけ笑う。
「俺だろ、それ」
悠さんが小さく笑う。
その笑いに、少し救われる。
まだ、二人で決められる。
まだ、二人の問題だ。
九月の空は高い。
季節は進んでいる。
私たちも、進むのだろうか。
答えは、まだ出せない。




