ノラが語る“遠い記憶”。
夜の風が、少し違っていた。
音も、においも、いつもと同じはずなのに、
それらが、すこしだけ古びて感じた。
「……サエ、今日はちょっと、話をしてもいいかにゃ」
ノラが、ぼくの肩の上で、丸くなりながら言った。
その声には、いつもの気まぐれな調子がなかった。
「ぼく、猫なんだけど……猫じゃないときも、あった気がするにゃ」
風がそっと吹いた。
笠の縁に積もっていた霜が、ぱらりと崩れる。
「昔……もっと前。
畑のまんなかに、“祠”があったにゃ。
そこに、小さな火が灯ってて、誰かが、ぼくのことを“風の主”って呼んでた」
ノラは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「人がたくさんいたころの村は、
朝になると火を焚いて、夜になると星を拝んで……
そうやって、世界と話してたにゃ」
「ぼくは、その火のそばにいた。
猫の形をしてたけど、たぶん……名前は、なかったにゃ。
でも、風のなかで声を聞いて、村のことを、ただ、見てたにゃ」
ぼくは黙って風を受けていた。
けれどその語りは、確かにぼくの中へ染み込んでくるようだった。
「いつからか、ひとが祠に来なくなって……
火も灯らなくなって、名前も忘れられて。
ぼくも……ただの猫になったにゃ」
「でも、それでよかったんだにゃ。
名前がなくても、火が消えても、風があれば、それでよかった。
ひとがいなくなっても、畑があれば……ぼくはそこにいる理由があったにゃ」
ノラの声が、かすかに震えていた。
でも、それは悲しみというよりも、“確かさ”のにおいがした。
「サエ、おまえがここに立った日。
……ぼく、すごく懐かしいにおいがしたにゃ。
それで、思い出しかけたにゃ。“昔のぼく”を」
「でも、もう……すぐ、風に還るにゃ」
ぼくは、肩の上の重みを、ただ受け止めていた。
名前を持たず、声もなく、ただ、風を感じながら。
その夜、星は出ていなかった。
でも空は、いつもより少しだけ、明るく見えた。
ノラの正体は、明確には語られません。
けれど、“猫であり、精霊であり、ただの風”でもあるということが、
この回で自然に伝わるよう構成されています。
サエが「命の記録者」であるなら、ノラは「命の巡りの証人」。
二人の関係性が、終わりに向かって、ゆるやかに深まっていきます。




