村の外から来た旅人。
その日、風が変わった。
どこか違う匂いがした。
土でも、枯葉でも、雪でもない。けれど、どこか“懐かしくない”匂い。
「……にゃ。風が運んできたにゃ。よそものの匂いだにゃ」
ノラがぼくの肩の上で鼻をひくつかせた。
「ずっと村の中だけの匂いしかなかったのに……今日の風はちがうにゃ。
誰か、“外”から来たにゃ」
午後、遠くの道にひとつの人影が現れた。
黒い外套に、泥のついた靴。大きな荷を背負い、帽子を目深にかぶっている。
歩き方はまっすぐで、早すぎず、遅すぎず。
その人は、迷いなく畑の前で立ち止まった。
「……案山子、まだ立ってるんだな」
それは、男性の声だった。
低くて、すこし掠れていたけれど、
その声には、確かにこの村の“言葉の調子”があった。
「……にゃ? この人……前に、いたことあるにゃ」
ノラが肩の上で目を細める。
男はぼくの前に立ち、しばらく黙っていた。
その瞳には、見慣れたものを見つめるような、でももう戻れないものを確かめるような光があった。
「……ここに、帰ってこようかと思ったんだ。
でも……思ってたより、静かすぎた」
男は苦笑し、足元の枯れ草をぐっと踏みしめた。
「灯りがない村は、やっぱり寒いな。
でも……おまえだけは、変わらない。あの頃から、ずっと」
ぼくは動けない。何も返せない。
でも、風がその言葉を、しっかり受け止めていた。
ノラが小さく鳴いた。
「……あの人、むかし、ここで生まれたにゃ。
たぶん、すぐに村を出たにゃ。でも、今になって、戻ってきたにゃ」
男はリュックを下ろし、中から紙を一枚取り出した。
それは、手紙だった。
「……これ、渡す相手、もういないって思ってたけど。
せめて、おまえに渡しとくよ。……見守ってくれてたみたいだから」
そう言って、男はぼくの足元に、そっと手紙を置いた。
「ありがとな。……さようなら」
それきり、男はもう振り返らなかった。
風がまた変わった。
去っていく背中にまつわりついていた“外の匂い”が、少しずつ村の匂いに溶けていった。
ノラが、手紙を見つめながら言った。
「この村には、もう誰も戻ってこないにゃ。
でも、“思い出してくれる人”は、まだいるにゃ」
その言葉に、ぼくの笠が、かすかに鳴った。
「外からの旅人」は、この物語のなかで数少ない“よそもの”です。
けれど、かつてこの村にいた人間が、
遠くの土地で村を思い出し、戻ろうとする――その“記憶”の存在こそが、
この村が“まだ終わっていない”ことの証です。
案山子=サエは、その記憶を預かり、風に送り出す“風の中継者”です。




