19 あの人の名前は……
スパナを右手に持ったまま、わたしは眉を寄せた。
今メンテナンスを終えたばかり。
なのにペン吉君が。
「……また、止まってます」
「ん?」
「今、ペン吉君の右手、動いていませんでした」
わたしの言葉に、ペン吉君は自分の右手を持ち上げた。
ぐるぐると肩を回し、肘を曲げ、短い腕を何度か振ってみせる。
「動いてなかったんじゃねぇ。 動かしてなかったんだ」
「でも」
「気にしすぎだ。 もうなんともねぇって」
呆れたような声。
いつものペン吉君だ。
いつもと同じように喋って。
いつもと同じように笑っている。
なのに。
どこかがおかしい。
数日前、街で突然倒れてから。
ペン吉君の動きが、時々不自然に止まるようになった。
ほんの一瞬の時もある。
今日のように、数秒間まったく反応しなくなることもある。
何度も調べた。
昨日も。
今日も。
部品を一つ一つ確認して。
魔導回路も、関節も、動力部分も。
思いつくところは全て見直した。
それでも、原因が分からない。
「……もう一度、見せてください」
「またぁ?」
「お願いします」
「さっき全部見ただろ?」
「見ました。でも、見落としがあるかもしれません」
「これ以上、俺の何をあばく気だよ。 おお、怖ぇ」
笑いながら言って、ペン吉君がわたしに背を向ける。
「なあ、今日はもういいって。それよりお前、腹減ってんじゃねぇの? 親父さんに飯――」
「ペン吉君」
名前を呼んだのに、返事がない。
こちらに顔を向けてくれない。
「ペン吉、君?」
「…………」
まただ。
椅子から降りようとしていた姿勢のまま、止まっている。
「ペン吉君!」
肩を掴んだ。
その瞬間。
「――っ、あ?」
ペン吉君の体が大きく揺れた。
「なんだよ」
「今! 止まってました!」
思ったより大きな声が出た。
「あー……悪ぃ。ちょっとぼーっとしてた」
「嘘です」
言ってから、自分で驚いた。
人に向かって、こんなにはっきり「嘘」と言ったのは初めてかもしれない。
ペン吉君も驚いたようにわたしを見る。
「……なんだよ、急にでかい声出して」
「嘘、ですよね?」
「何が」
「ぼーっとしていた、というのがです」
「だから、なんで――」
「お願いです、もう一度見せてください!」
思わず声を張った。
「悪いところを、必ず見つけて直します! だから見せてください! じゃないと⋯⋯怖いんです」
手が震える。
怖い。
ずっと怖かった。
原因さえ分かれば直せる。
壊れた場所さえ見つかれば、わたしが直す。
でも。
何もない。
器には。
だったら問題は⋯⋯。
「……何か、隠していませんか?」
わたしの問いかけに、ペン吉君の瞳が揺れた。
ほんの僅かだけど。
でも、確かに揺れた。
指先から血の気が引いていく。
怖い。
物凄く、怖い。
まるで、心臓が恐怖で凍りついていくかのようだった。
「もしかして⋯⋯何か思い出したのですか?」
「……いいや?」
「では、あの日どうしてテオドール王子の名前に反応したのですか?」
「してねぇよ」
「しました」
「気のせいだ」
「気のせいではありません」
「ニーナ」
「こちらをちゃんと見てください、ペン吉君!」
ペン吉君が押し黙った。
わたしから顔を背けたまま。
その様子に、またいいようのない不安がわき上がってくる。
数日前に、ペン吉君に言われた大事な言葉。
ちゃんと人を見る。
ちゃんと気づく。
それが優しさだ、と。
だから。
わたしは、ペン吉君を見た。
ほとんど目を合わせてくれないペン吉君を。
「ペン吉君……もし、わたしに出来ることがあるなら――」
「ねぇよ」
とても低い声が返ってきた。
「でも」
「ねぇって」
「だったら、せめて何が起きているのか――」
「しつけぇな!」
苛立ったような硬い声に、体が竦んだ。
部屋が静まり返る。
少し離れた場所にいたドロシーちゃんも、じっとこちらを見ている。
ペン吉君がくるりと体の向きを変えた。
まるでわたしへの拒絶を、体で示しているかのようだった。
数秒の沈黙。
重苦しい空気が室内に満ちていく。
やがて。
「……悪ぃ」
消えそうなほど小さい、謝罪の言葉。
「大丈夫だ。 ⋯⋯なんともねぇから。もう放っとけって」
放っておけ。
その言葉に。
なぜだか急に、胸の奥がざわついた。
「嫌です」
気がつけばそう答えていた。
理屈じゃない。
ただ。
「嫌です。 放ってなんて、おけません」
そうわたしの心が答えていた。
「⋯⋯俺がいいって言ってんだ! なのに、なんでそんなに気にすんだよ」
「なぜって……」
そんなの。
決まっている。
「ペン吉君は、大事な友人ですから」
ペン吉君の動きが止まった。
今度は不具合じゃない。
それくらい、わたしにも分かった。
「……友人?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
確かめるように静かに問いかけてくるペン吉君に、はっきりと言葉を返した。
また重い静寂が部屋に満ちる。
そして。
しばらく黙っていたペン吉君が、突然。
「はっ」
冷たく笑った。
「……お前、本当にそう思ってたの?」
「え?」
「…俺がお前みたいなお人好しバカの、友人?」
ペン吉君が、ゆっくりとこちらを振り返った。
そして。
わたしは、思わず息を呑んだ。
侮蔑と憐れみの入り混じった、酷薄な笑み。
温もりのない瞳。
いつものペン吉君とは明らかに違う誰かが、そこにいた。
「本当に、お前の頭ん中、花でも詰まってんのか?」
「…………え?」
なにを。
ペン吉君は、一体何を言っているのでしょう。
言葉の意味は知っているはずなのに、理解できない。
ただただ、自分の心臓の音が耳にうるさかった。
「俺と友人、だと? はん、笑わせる。 俺が何者かも知らねぇくせに」
「そ、れは……」
「名前しか覚えてねぇ。 どこの誰かも分からねぇ。 そんな男がいきなりお前の体に入り込んできて。 それでちょっと一緒にいただけで、もう友達?」
「でも、ペン吉君だって…」
「お前は優しくされりゃあ、誰にでも尻尾振るのか? ああ、キザオにも随分心許してたもんなぁ?」
はは、とペン吉君が笑う。
でも。
やっぱり、変です。
いつものペン吉君の笑い方じゃない。
「ペン吉君……?」
「なあ、もういいわ、お前。 いい加減、うっとうしい」
「……え?」
ペン吉君が一歩、わたしから離れた。
「ニーナ、お前はいい女だったよ」
また一歩、ペン吉君がわたしから遠ざかる。
「………なにを、言っているのですか…?」
「人付き合いが下手で。 ちょっと優しくすりゃあすぐ気を許す。 金もある。 情報も集めてくれる。おまけに天才魔技師様と来た」
ペタペタ。
足音が少しづつ遠ざかっていく。
「…ペン吉君、待って下さい。 どこに行くのですか?」
踏み出したわたしの足を止めるように。
ペン吉君が振り返った。
「ニーナ、お前はマジ『都合のいい女』だった。 だけどもう茶番は終わりだ」
都合のいい女。
それがいい意味の言葉ではないことは知っている。
けれど。
「嘘です」
真っ直ぐに背を伸ばし、ペン吉君の刺すような冷たい視線を、真っ向から受け止める。
「ペン吉君は、嘘をついています」
「………お前に何が分かんだよ」
「……確かに分からないことも多いです」
3年も人と距離を置いた。
わたしには、足りないものが確かに沢山ある。
でも……。
「───分かることもあります」
わたしを睨みつけるように見ていたペン吉君の、冷たい瞳が。
「………確かにわたしは人の感情の機微に疎いです。 でも……」
ほんの一瞬だけ、苦痛に耐えるように細まった。
そんな気がした。
「大事な友人が、苦しんでいる。 それくらいわかります」
「………っ!」
「今のペン吉君は、おかしいです」
一歩、ペン吉君に近づく。
ビクッとペン吉君の体が震えた。
「何かあったんですよね?」
「来んな」
「何か思い出したのなら――」
「来んなって」
「わたしにも――」
「何も知らねぇくせに!」
怒鳴られた。
それでも。
今度は、足は止まらなかった。
「知りません! だから、教えてください!」
「お前には関係ねぇ!」
「あります!」
「ねぇ!」
「あります! 友人です! あなたの幸せを、ずっとずっと願っています!」
「違う、友人じゃねぇ!」
叫び声が重なった。
ペン吉君が、荒い息を吐くように肩を上下させている。
魔道具だから。
本当は、息なんて必要ないのに。
「……もう付き合いきれねぇんだよ。 マジうんざりだ。 お前の面倒みんのも、アホみたいな漫才させられんのも」
「……すみません、今度は気を付けますから──」
「うるせぇ! はっきり言わないとわかんねぇのか! お前なんか、大っきらいだ、つってんだよ!」
胸の奥に。
今度こそ、深く突き刺さった。
それでも。
手を伸ばした。
「ペン吉君」
「触んな」
手が止まる。
「もう、うんざりだ」
ペン吉君がまた背を向けた。
「じゃあな」
ペタ。
ペタペタ。
黒いマントが揺れる。
遠ざかっていく。
「……待って」
振り返らない。
返事もない。
「待ってください」
小さな影が、ドアを出ていく。
「ペン吉君!」
見えなくなった影を追って、無我夢中で走った。
廊下。
階段。
「待って下さい!」
玄関の扉が開く。
ペン吉君が外へ出ていく。
眩しい光。
外には大勢の人。
知らない音。
足が、止まった。
怖い。
外は、怖い。
昨日だって、人とすれ違うたびに体が強張った。
一人では。
まだ。
でも。
黒いマントが遠ざかる。
行ってしまう。
「…………っ」
嫌。
それだけは。
嫌です。
「待って下さい、ペン吉君!」
気づけば、外へ飛び出していた。
「ニーナ、待って!」
と後ろでドロシーちゃんの声がした。
でも、振り返る余裕はなかった。
人。
人。
人。
四方から聞こえる声。
馬車の音。
足音。
怖い。
息が苦しい。
それでも、前だけを見る。
黒いマント。
あれだけを追う。
「待って!」
返事はない。
「待ってください!」
何度も人にぶつかった。
その度に、頭を下げて。
また走る。
「ペン吉君!」
どんどん距離が遠くなる。
どうして。
どうして止まってくれないのですか。
わたしが悪かったのなら謝ります。
嫌なところがあるなら直します。
友人ではないと言うなら。
それでもいい。
だから。
いなくならないで。
「待って! お願いです、待って!」
足が痛い。
息が続かない。
それでも。
あの小さな背中から目を離さない。
なのに。
人の波に紛れて。
徐々に、黒いマントが隠れていく。
「ペン吉君!」
違う。
その名前じゃない。
ペン吉君は、わたしが作った器の名前。
あの人には。
あの人自身には。
名前がある。
「待って下さい……レオ、さん!」
遠くで。
小さな背中が、ほんの僅かに揺れた。
聞こえた。
絶対に聞こえた。
「レオさん!」
それでも、止まらない。
だったら。
「レオ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
人目なんて、もう気にならなかった。
ただ。
戻ってきてほしかった。
「レオ!」
けれど。
黒いマントは、人混みの向こうへ消えた。
「…………」
いない。
どこにも。
「レオ……?」
人の間を覗き込む。
いない。
「レオ!」
見失った場所まで走った。
「レオ!」
右。
左。
見覚えのない道。
知らない店。
知らない人。
でも、大事な人の姿はどこにも見当たらない。
どこ。
どこに行ったのですか。
「レオ……」
息が苦しい。
胸が痛い。
走り慣れていない足が、もう動かない。
とうとう足がもつれた。
「っ……」
壁に手をついて、なんとか倒れるのを堪える。
どこでしょう、ここ。
いつの間にか大通りから外れてしまったらしい。
人通りの少ない、細い道。
戻らなければ。
そう思うのに。
足が動かない。
「……ペン吉君」
いつものように笑って返事をしてくれる人は、もういない。
それだけで涙が出た。
嫌い。
うんざり。
都合の良い女。
言われた言葉が、今になって次々と蘇る。
「……嘘、ですよね」
誰も答えてくれない。
でも。
あれが例え彼の本心だったとしても、ただ。
「……会いたい、です」
もう一度。
ちゃんと話したい。
今度はもっと。
ちゃんと見ますから。
だから。
「レオ……」
「駄目じゃないか、ニーナ?」
突然背後から聞こえてきた声に、びくりと体が震えた。
聞き覚えのある、穏やかな声。
なぜだか背筋が凍りついた。
「こんなところに一人でいたら、危ないよ?」
「ニーナ! あのおバカ! どっちに行ったのよ!」
「やあ、ドロシーさん。こんにちは」
「…………は?」
「こんなところで会うなんて奇遇ですね」
「何よ、あんた。なんでここにいるのよ」
「おや? どこへ行くんです?」
「………あんたに関係ないでしょ」
「おや、追いかけっこですか? いいですね、幼少期以来だ」
「来ないでよ!」
「はは。楽しいですね、ドロシーさん」
「楽しくないわよ! この変態!!」
「――捕まえた」
「離せ! 変態!!」




