16 もう逃げない
「ニーナ=グローリア」
名前を呼ばれて、何気なく振り返る。
そして。
わたしの体は恐怖で固まった。
この国では珍しい、目が覚めるような赤い髪。
猫のように吊り上がった、緑色の瞳。
【何あれ、気持ち悪い】
三年間わたしを苦しめ続けた、あの言葉。
そして。
エミリア=フィンライル伯爵令嬢。
それは忘れたくても、忘れられない令嬢の名前。
認識した瞬間、心の一番深い柔らかい部分がツキリと痛んだ。
怖い。
ブルッと全身が震え上がる。
恐怖に正直な体は、逃げようと無意識に右足を後ろにひいた。
けれど。
わたしのすぐ側、寄り添うように立つ大事な友人の存在に、臆病な足がピタリと止まる。
すぐ先の露店の前にいる、力強いペン吉君の存在。
そして。
じっとわたしを見上げるドロシーちゃんの瞳。
いつものからかうような視線じゃない。
とても真剣で、それでいて泣きそうな目に、思わず唇を噛みしめた。
本当は。
……本当は、気づいてた。
ドロシーちゃんが、必死にわたしを部屋から出そうとしていたこと。
その話題が出るたびに、いつも少しだけ怖いドロシーちゃんの目が、実はすごく悲しそうに輝いてたこと。
本当は、ずっと前から気がついてた。
それでも。
外に出るのが怖かった。
また傷つけられるのが。
侮辱されるのが、ただただ怖くて。
そしてわたしは逃げ続けた。
三年間も。
わたしの弱さがドロシーちゃんを苦しめた。
ごめんなさい、ドロシーちゃん。
でも。
もう、逃げない。
「ニーナ……」
小さく名前を呼んでくれるドロシーちゃんに励まされながら。
震え、逃げようとする弱さを叱咤し、エミリアさんに向き直る。
背筋を伸ばし、顔を上げて。
彼女の、その緑の目をそらすことなく真っ直ぐに見据えた。
「二、ニーナ=グローリア」
全速力で駆け寄ってきたエミリアさんは、肩で息をしながらもわたしから視線を外さない。
一体何を言われるんでしょう。
またドロシーちゃんを侮辱するというなら。
今度こそ、傷つくからやめてほしい、と伝えます。
わたしはもう、自分の気持ちを自分で言う勇気をもらっています。
ドロシーちゃんから。
そしてペン吉君から。
けれど。
彼女が、鞄から取り出したものを見て。
わたしは眉を寄せた。
手のひらに乗るほどの大きさ。
小さな丸いレンズが付いたあれは、魔道具だ。
映像を記録し、残しておけるものだけれど、見るからにボロボロで型も随分と古い。
なぜこんなものを?
意味がわからなくてエミリアさんを見上げれば。
「久しぶり、ね。 ニーナ、あの……まずわたしの話を聞いてほしい」
話?
「わかりました」とも「嫌です」とも言えずにいるわたしに。
エミリアさんは言葉を続ける。
「あのね、これ、お祖父様の思い出の品だったの」
ぎゅっと大事そうに映写機を胸に抱くエミリアさん。
「お祖父様はわたしの恩人で。 とても大切な人で。 でもご病気になられて…」
「……そう、でしたか。 それは…お気の毒です」
無意識にそう呟けば。
エミリアさんが驚いたように目を見開き。
そして「ニーナ=グローリア」とまたわたしの名を呼んだ。
「お祖父様は、何度も言っていたの。 だんだんお食事を召し上がられなくなって。 ベッドからも起き上がれなくなって。 でもそんな中でも、『この魔道具に記録されているお祖母様のお姿を、死ぬ前にもう一度だけみたい』、って」
なるほど、映写機の中には奥様の映像が残されていたのですね。
「わたし、必死で勉強したの。 幸い、アカデミーでは魔工学を専攻していたから。 いくつも専門書を読んで、努力した。 ……けど…直せなかった」
「それは……大変でしたね」
といいつつ。
なぜこんな話をされるのかわからず、戸惑ってしまう。
「先生方にも相談した。 高名な魔技師様にも依頼してみた。 でも誰も直せなかった」
悔しそうに歪んでいたエミリアさんの目が、わたしを見る。
「それをあなたが直してくれた」
「わたしが?」
わたしが直した?
もう一度、エミリアさんの手の上に乗る魔道具を見てみる。
やはり、覚えていない。
父に頼まれて沢山の魔道具を修理してきましたから、そのうちの一つでしょうか?
「間違いないわ。 グローリア伯爵からそう聞いたもの」
「そう、ですか?」
思い違いではないですか?
そう言いかけて。
思わず「あ」と声が出た。
魔道具の底。
意図的に付けれた傷が少しだけ見えた。
記憶が一瞬で蘇る。
見覚えがある。
確かあれは。
「『愛する妻、エルザと…』」
そう刻まれていた。
「そう。 お祖母様の名前…」
動作確認で、ほんの一瞬だけ中身も見せてもらった。
赤い髪の、とても美しい女性が写っていたはず。
「お祖父様はとてもお喜びになって。 何度も何度も、繰り返し映像を見られていたわ。 ……亡くなられる直前まで…」
「……そう、ですか」
エミリアさんの大切なお祖父様は既に亡くなっている。
その事実に胸が痛む。
誰だって、大切な人を亡くすのは辛いはずだ。
「ニーナ=グローリア」と。
先程までとは少し違う、低い声で名前を呼ばれ、顔を上げる。
そして。
わたしは息を呑んだ。
エミリアさんが、わたしにいきなり頭を下げたからだ。
それもただの礼じゃない。
最敬礼を示すそれに、慌てふためいてしまう。
「エ、エミリアさん?」
「ごめんなさい!」
苦しみを吐き出すように告げられた言葉に、一瞬頭が真っ白になる。
「あの時、気持ちが悪いなんて言って。 あなたのことを侮辱して。 本当に本当にごめんなさい。 ずっとずっと謝りたかった」
衝撃が、体を突き抜けていった気がした。
今、エミリアさんは、なんて…?
「えっと……それで…ごめん、この猫ちゃんはなんて名前だったかしら? 覚えてなくて…」
ゆっくりと頭を上げたエミリアさんが、バツが悪そうに視線を彷徨わせる。
覚えていないのも当然です。
なぜなら。
「紹介していません。 その前に『気持ち悪い』と言われましたので」
「ぐっ…ご、ごめん」
エミリアさんはまた深々と頭を下げた後、真正面からわたしの顔を見た。
「今度は聞く、から。 もう一度……貴女の大事な友達を紹介、してくれないかな?」
【何あれ、気持ち悪い】
かつてエミリアさんに言われた言葉が頭をよぎる。
ずっと胸に突き刺さっていた言葉。
出来るなら話をしたかった。
そしてただ、大事な友人を、ドロシーちゃんを紹介したかった。
それが、今やっと…。
「………ドロシー…ちゃん、です」
喉から絞り出した声が震える。
「ドロシーちゃん」と。
噛みしめるように呟いたエミリアさんは。
体の向きを変えて、もう一度。
今度は先程よりも更に、深く頭を下げた。
そして。
「酷いこと言って、ごめんなさい、ドロシー…ちゃん? ……さん?」
謝った。
ドロシーちゃんに。
あの日、気持ちが悪いと言って、目を背けたのに。
なのに。
貴族の令嬢が、非を認めて、頭を下げてくれている。
魔道具に。
「ニーナ、とても素敵なお友だちね」
急激に視界がぼやけ、鼻の奥が痛んだ。
「それから、お祖父様の宝物を直してくれてありがとう。 ありがとう、ニーナ」
頭を下げたまま告げられた言葉に。
わたしの目からは涙が溢れ出していた。




