第六章 選択編 第17話 文官の分岐
役所の人間は、変化を誰より早く書類で知り、誰より遅く腹で理解する。
ミレスの行政局では、この数か月で机の上の紙の種類が目に見えて変わった。以前は帝都への照会、裁可待ちの案件、決定済み事項の通達がほとんどだった。今はそれに加えて、住民討議の記録、各地の比較報告、不満の投書、判断理由を求める意見書が積み上がる。文量は増えたのに、正解の匂いは薄くなった。
そうなると、役所の中の人間も二つに分かれ始める。
改革に適応しようとする者。
前の秩序へ戻ろうとする者。
もちろん、綺麗に二色には分かれない。大抵は迷いながら、日ごとに少しずつ傾く。だが、その傾きがはっきり見えた日があった。
ミレス行政局の定例会議で、北方村落への追加支援の扱いが議題に上がった時だ。ルーナ以外にも、冷え込みの影響が表れ始めた村が幾つかある。全てに満足な支援はできない。ならばどこまで地方裁量で動くか、どこから帝都の指示を待つか。その線引きをどうするかで、会議室の空気はぴたりと割れた。
「これ以上、各担当が独自に判断するのは危険です」
そう言ったのは、年配の文官ベネディクトだった。五十を過ぎ、三十年近く役所にいる。几帳面で、前例を重んじ、字の乱れを何より嫌う男だ。
「危険、というのは」レオネルが促す。
「責任の所在が曖昧になります。地方判断が必要なのはわかる。だが最低限、判断権限の階層は明確にすべきです。今は、補佐官、監督官、書記、果ては討議所の世話役まで、誰がどこまで口を出してよいのか曖昧すぎる」
「曖昧だから現場で動けてる面もあります」若い文官の一人が反論した。
「その“動けてる”の結果が将来どうなるか見えているのかね?」
ベネディクトの言葉は厳しかったが、決して感情的ではなかった。
そこが逆に会議を重くした。
不安が理屈の顔をすると、人は簡単には斥けられない。
「中央からの返答が追いつかない以上、こちらで判断せざるを得ません」レオネルが言う。
「ならばなおさら、こちらの内部で決裁線を整えるべきです。討議所の声を参考にするのは結構。しかし、決定の責任を薄く広くばらまくべきではありません」
“薄く広くばらまく”。
その言い方に、数人の顔がわずかに曇る。
今まさにこの役所がやっていることの核心を、嫌な形で言い当てられたからだ。
すると今度はネヴィルが、珍しく会議の場で口を開いた。
「記録がある以上、ばらまいているわけではありません」
皆が彼を見る。
記録官が自分から前へ出ることは少ない。
「誰が何を言い、どう決まったかは残っています。むしろ今までより経緯は明確です」
「明確なのは紙の上だけだ」ベネディクトが返す。「実際の責任はどうだ。失敗した時、討議に出た全員が処分されるのか? されないだろう。結局、役所が引き取る。ならば最初から役所がもっと強く制御すべきだ」
それは一理ある。
あまりに一理ありすぎて、レオネルは即座に切り返せなかった。
会議後、廊下では若い文官たちが小声で言い合った。
「ベネディクト殿の言うこともわかる」
「でも今さら中央待ちに戻せるか?」
「戻せないからって、このままでいいとは限らない」
文官たちは制度の人間だ。
制度が揺れれば、自分の立ち位置まで揺れる。
だから彼らの迷いは単なる保身ではない。
国家の骨組みをどこまで変えてよいのか、その肌感覚があるからこその抵抗でもある。
ネヴィルは自室へ戻ったあと、会議の要点を記録しながら、自分の筆が少し震えているのに気づいた。
討議所の記録をまとめることは、彼にとって新しい役割だった。
だが今日の会議で初めて、その役割自体が“改革派の側”として見られていると知った。
彼は別に旗を振ったつもりはない。
ただ、起きていることを残そうとしているだけだ。
しかし変化の時代には、記録することさえ立場になる。
昼過ぎ、マイナが彼の机の前に立った。
「落ち込んでる顔ね」
「そんなにわかりますか」
「目の下」
彼女は短く言い、ためらいなく椅子を引いた。
「役所は今、分かれ始めてる。見ればわかるでしょ」
「ええ」
「改革が好きか嫌いかじゃないのよ。誰が責任を持つのか、その形が見えないのが皆怖いの」
ネヴィルは頷いた。
「私は記録を続けるべきでしょうか」
「続けなさい」
「迷いがないんですね」
「あるわよ。でも、迷ってる時ほど記録は要る」
その言葉は、彼の胸に静かに落ちた。
その晩、討議所では役所内部の分裂の噂がもう話題になっていた。町は狭い。会議室の空気すら、夕方には酒場のつまみになる。
「ほら見ろ、役人だって戻りたがってる」
「そりゃそうだろ。責任が増えたんだから」
「でも若い連中は変える気みたいだぞ」
「若いってのは、だいたい痛い目を見るまで変えたがるからな」
笑いが起きたが、どこかぎこちなかった。
役所が割れるということは、制度の中枢自体がまだ答えを持っていないということだ。
民にとっては、それもまた不安材料だった。
宿では、アリアがミレス行政局内部の報告を読み終え、しばらく黙っていた。エリオンが問う。
「想定内か」
「ええ。むしろ遅いくらい」
「文官は骨だ。骨が痛み始めた」
「新しい体には、新しい痛み方があるものよ」
そう言いながらも、アリアの声は軽くなかった。
文官たちは単なる抵抗勢力ではない。
彼らが機能しなければ、民の選択は記録も翻訳もされず、ただ散っていく。
「改革者と保守派、どちらに賭ける?」エリオンが聞く。
「どちらにも賭けない」
「都合のいい答えだな」
「文官は、どちらか一方に勝たせるものじゃない。新しい秩序に必要な役割へ移ってもらわなきゃいけないの」
彼女は紙束の端を揃えた。
「制度側の人間が、自分の判断を持つ人間になる。その痛みを避けられないのは、民だけじゃないわ」
その言葉どおり、役所の廊下にもまた、第六章の裂け目が走り始めていた。




