第六章 選択編 第18話 飢えの前触れ
飢えは、最初から腹の虫の音として来るわけではない。
まず来るのは、数の違和感だ。
市場に積まれる袋の高さが少し低い。
朝一番で売り切れる品が増える。
値札を書き換える手が早くなる。
そして人は、まだ本格的に飢えてもいないうちから、“飢えそうだ”という気配に追い詰められ始める。
北東の穀倉地帯リズヴァンから届いた報告は、その種の違和感に満ちていた。
もともと豊かな平野で、帝国でも有数の穀物供給地。だからこそ誰も、本格的な危機がそこから始まるとは思っていなかった。だが春の冷え込みに加え、地方ごとの判断の食い違いが、備蓄放出のタイミングを狂わせた。村ごとに保持を優先する所もあれば、市場に回して現金化を急ぐ所もある。さらに運搬路の修繕判断が遅れ、荷の流れは鈍った。
決定の多さが、統一的な見通しを失わせていた。
ミレスに届いた要約では、まだ直接の餓死者は出ていない。
だが各地で小規模な買い占めが頻発し、備蓄の偏在が進み、一部村落では“よそへ出す分はない”という空気が強まっているという。
レオネルはその紙を読み、ぞっとした。
飢えは一つの大災害として来るより前に、こうして人の視野を狭める。
隣村ではなく自分の納屋。
共同体ではなく家族。
そうやって守りの単位が縮み始めた時、危機はもう入口に立っている。
「まずいわね」
珍しく、マイナが紙を見た瞬間にそう言った。
「ええ」
「最悪なのは、誰も怠けていないことよ」
レオネルは顔を上げた。
彼女は続ける。
「皆、各々の理屈で動いてる。備えるために抱える。今換金したいから売る。道路が危ないから修繕を後回しにできない。どれも局所的には理解できる。だから全体が崩れる」
それが一番嫌な形だった。
無能な暴君や、明らかな裏切り者がいれば、まだ話は単純になる。
だが今回は違う。
無数の“部分的に正しい判断”が、繋がった時に全体を悪くしている。
その夜、討議所でネヴィルがリズヴァンの報告を読み上げると、いつものざわめきが起こらなかった。
皆、話の意味をすぐには飲み込めないでいる。
遠い穀倉地帯の問題。
けれどその穀物が回らなくなれば、遠くない未来に自分たちの食卓へ届く。
「それって、もう飢饉なのか」誰かが聞く。
「まだそこまでは書かれていません」ネヴィルが答える。
「まだ、か」
「でも兆候ではある」
その“まだ”が場を重くした。
まだ起きていない。
だから強い手を打つには早いと言う者がいる。
だが、起きてからでは遅い。
そのあいだで、人の判断はいつも鈍る。
リュシアが口を開く。
「今のうちに、うちも備蓄の基準を見直した方がいい」
「また絞るのかよ」肉屋が眉をひそめる。
「絞るだけじゃなくて、出す条件も整理する。次に困るのは町の外から来る流れが細った時よ」
「そこまで考えてる余裕があるのか、俺たちに」
「余裕がない時ほど考えないといけないの」
「立派だな、お前は」
皮肉が飛ぶ。
だが今日は、いつものような強い反発には広がらなかった。
皆の顔に、同じ種類の不安があったからだ。
その晩遅く、イリサは工房の帰り道で、南市場の穀物屋の前に人だかりを見た。もう店仕舞いの時間なのに、何人かが声を荒げている。
「昨日よりまた上がってるじゃないか!」
「入ってこないんだ、しょうがないだろ!」
「じゃあいつ入る!」
「俺が空から降らせられるならそうするよ!」
怒鳴り合いは滑稽にも見える。
だがその奥にあるのは、数字ではない恐れだ。
明日、買えるか。
明後日、まだあるか。
その問いが、人の喉を荒くする。
宿では、エリオンが報告をまとめてアリアへ渡した。
「穀倉地帯が揺れ始めた」
「ええ」
「まだ直接の破局ではない」
「だから厄介ね」
アリアは静かに言った。
小さな失敗や迷いの連鎖は、しばしば“大きな危機”の形をとる前に止めなければならない。
だがどこで手を入れるかを誤れば、人々はまた王の裁定に慣れ直す。
「ここで中央が一律命令を出せば、流れは止まるかもしれん」エリオンが言う。
「止まるかもしれない」
「だが出さない」
アリアは紙を机に置いた。
「まだ、各地が何を失敗しているのか整理できていない」
「整理している時間があると思うか?」
彼の問いは鋭い。
アリアは少しだけ目を閉じた。
飢えは待ってくれない。
それでも、見えないまま大きく動けば、別の歪みを生む。
「……近いわね」
「何が」
「私が、何かを決めなきゃいけない時が」
エリオンはそれを聞き、黙って彼女を見た。
ついにその言葉が彼女の口から出た。
まだ内容はない。
だが“まだ見ているだけ”の地点は、確かに終わりへ近づいていた。




