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灰冠(はいかん)の大陸アルメリア  作者: たむ


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第六章 選択編 第5話 最初の決定

 ミレスの南に、ルーナという小村がある。


 町から荷車で半日。麦畑と痩せた放牧地のあいだに十数戸の家が寄り添う、小さな集落だ。村の入口には古い石橋が一本架かっていて、春の増水のたびに下の流れが濁る。石橋は百年前に作られたものと言われ、今は欄干の片側が崩れ、中央にもひびが走っていた。村人たちはずっと直したいと思っていたが、金がない。だから毎年、次の年こそと先送りしてきた。


 そして今年、別の問題が重なった。


 冬越しの備蓄が少ない。

 昨年の収穫は悪くはなかったが、種籾の買い足しと家畜の疫病で蓄えが削られた。もし冷害が来れば厳しい。橋を直すか、備蓄を増やすか。どちらにも金は足りない。


 以前なら、村長が町へ嘆願し、町は帝都の裁可待ちを理由に渋り、それでも年末には何らかの形で上から答えが降りてきただろう。曖昧でも、不満でも、“決まったもの”として受け入れられたはずだ。


 だが今、ミレスでも帝都でも、風向きが変わっている。


 ルーナの村長ハドは、困り果てた顔で町役所に出向いた。相手をしたのはレオネルだった。役所の小部屋で、ハドは何度も帽子を揉みながら言った。


「どっちも大事なんです。橋も危ないし、備蓄も心もとない。だから、どちらにするか上で決めていただければ」


 レオネルはその言葉を聞きながら、自分が数日前まで同じことを帝都に求めていたのを思い出した。決めてほしい。責任ごと引き取ってほしい。その願いは怠慢ではなく、恐れの自然な形だ。


「村で話し合うことはできますか」


「話し合い?」


「村の者たちで。何を優先するか」


 ハドは目を丸くした。


「そんなことをして、まとまるでしょうか」


「まとまらないかもしれません」


「では、どうしろと」


「それでも、まずは話してもらうしかないんです」


 冷たい言い方になったとレオネルは思った。だが、それ以上に飾る言葉が見つからない。今の役所には、村のために綺麗な嘘をつく余裕がないのだ。


 結局、ルーナでは三日後、納屋を開放して村人全員が集まることになった。


 その話を聞きつけたリュシアが「記録役が必要だ」と言い出し、ミレスの討議所から二人の書ける者が同行することになった。どうせなら様子を見たい、と言う者まで出たが、ハドが「見世物じゃない」と珍しく強い声を出して断った。


 当日、村の納屋には乾いた藁の匂いが満ちていた。梁は低く、薄い光が板の隙間から差し込んでいる。大人が二十七人、年長の子どもが数人。働き手はだいたい揃っていた。女も男も、農夫も羊飼いも、普段なら同じ場で一緒に何かを“決める”ことなどない人々だ。


 村長ハドが前に立ったが、何から言えばいいかわからない顔をしていた。隣にはミレスから来た書き手の一人、若い書記見習いの少年が板切れを机代わりにして座っている。炭筆を持つ手が緊張で震えていた。


「……ええと」ハドは咳払いをした。「今日集まってもらったのは、橋の修繕と、備蓄の買い足し、そのどちらを優先するか決めるためだ。町には両方を賄う余裕がないと言われた」


「町のせいか」誰かがすぐ言った。


「帝都のせいだろ」別の誰かが返した。


 その瞬間に空気が安易な方向へ流れかけたのを、ハドは珍しく手を振って止めた。


「違う。今日は誰のせいかを決めるんじゃない。うちで何を先にするかだ」


 その言葉に、納屋は少しだけ静まった。


 最初に口を開いたのは羊飼いの老女だった。


「橋だよ。あれが落ちたら荷が運べない。病人も運べない」


 すると若い母親がすぐに言い返す。


「でも食べるものがなければ橋があっても意味がない」


「橋がなければ町の市にも出られない」


「今年は冷えるかもしれないって話だよ」


「冷えないかもしれないだろ」


 議論はすぐ熱を帯びた。

 理屈はどちらにもある。

 だからこそ、どちらも譲れない。


 書記見習いの少年は必死に言葉を追い、炭筆を走らせた。橋。備蓄。運搬。病人。冷害。家畜。市場。流れ。どの言葉も、誰かの暮らしから出てきている。帝都の文書のように整理された項目ではない。切実さが、話す順番も整え方も持たないまま噴き出してくる。


 途中、サナの隣家にいた老女が手を挙げた。


「多数で決めるのかい」


 場が止まる。誰も、その先を考えていなかった。


「だって、話したって最後には決めないといけないだろ」若い農夫が言う。


「多数なら、少ない方は諦めろってことか」


「じゃあ全員一致するまで待つのか?」


「待ってるあいだに橋が落ちたら?」


「備蓄が尽きたら?」


 議論は一段深くなった。何を選ぶかだけでなく、どう選ぶかという問題に触れてしまったのだ。


 そこへ意外な声が差した。いつも物静かな粉屋の妻だった。


「手を挙げる前に、どっちを選んだら何が困るのか、ちゃんと一人ずつ言えばいいんじゃないかね。声の大きい人だけで決めるのはいやだよ」


 その提案は単純だったが、皆は少し考え、それから頷き始めた。結局、年長者から順に、橋を選ぶ理由、備蓄を選ぶ理由、その場合に困ることを短く話すことになった。


 場は不思議と落ち着いた。

 人は自分の番が来るとわかると、少しだけ他人の言葉を待てる。


 老女は橋を選んだ。病人を運ぶ道が必要だから。

 若い母親は備蓄を選んだ。子どもに食べさせるため。

 羊毛運びの男は橋。商いが止まるから。

 小柄な農夫は備蓄。畑は冷害を防げないから。

 理由はどれも個人的で、だからこそ嘘がなかった。


 書記見習いの少年は途中から、理由の横に困りごとまで書き込むようになった。橋が直れば備蓄不足の恐れ。備蓄を増やせば橋崩落の恐れ。どちらにも損失があることが、紙の上で初めて目に見える形になった。


 日が傾き始める頃、ようやく採決が取られた。


 橋の修繕、十五。

 備蓄の増強、十二。


 たった三票差だった。


 決まった瞬間、納屋の空気は晴れなかった。むしろ重くなった。多数が出ても、少ない方の不安は消えない。橋派の何人かも、勝った顔はしていなかった。備蓄派の若い母親は口を結んだまま、膝の上で手を握りしめている。


「これで行く」村長ハドは言ったが、その声は勝利の宣言ではなく、ただ記録の読み上げに近かった。


 書記見習いの少年は、震える手で最後の一行を書いた。


 ――ルーナ村、住民討議により、今年度の優先事項を石橋修繕と決定。


 その字を見たとき、ハドは妙に長い沈黙のあとで言った。


「残るんだな」


「はい」


「後で、誰が決めたかわかるのか」


「わかります。たぶん」


 ハドは帽子を握りしめたまま、しばらく紙を見ていた。


「なら、逃げられん」


 誰も返事をしなかった。


 納屋の外に出ると、夕方の風が畑を渡っていた。空は淡く曇り、遠くの石橋がまだ細い影のように見える。橋が直れば、この村はしばらく安堵するだろう。だが秋に冷え込めば、今日の決定は別の顔を見せるかもしれない。


 成功とも失敗とも、まだ呼べない。

 だが一つだけ確かなのは、これは“どこか遠くで決められたこと”ではないということだった。


 その夜、ミレスに戻った書記見習いの少年は、興奮と疲れで頬を赤くして役所に駆け込んだ。レオネルはその記録を読み、最後の行で指を止めた。


 住民討議により、石橋修繕と決定。

 たったそれだけの文が、なぜこんなに重いのか。


「どうでした」彼は少年に聞いた。


「うまくいった……のかは、わかりません」少年は正直に言った。「でも、決まりました。みんな、怖そうでした」


 レオネルは頷いた。


「そうだろうな」


 同じ頃、宿の一室でアリアもまた報告を受けていた。エリオンが簡潔に要点だけを述べる。ルーナ村で住民主導の決定。橋修繕を選択。票差は僅少。


「介入するにはいい機会だったかもしれん」エリオンが言う。「王都から支援金でも出せば、美談になる」


「そうね」


「だがしない」


「しないわ」


 アリアは窓の外を見た。夜風がカーテンをわずかに揺らしている。


「最初の選択は、たいてい美しくない。揺れて、不安で、あと味が悪い。それでいいの」


「人は感謝しないぞ」


「感謝されるために、これを始めたわけじゃない」


 彼女の声は静かで、少しだけ疲れていた。

 王が決めない世界は、王にとっても楽ではない。

 むしろ、自分が手を出せば簡単に整う場面ほど、黙って見ている方が苦しい。


 風は窓辺で小さく鳴った。

 紙に書かれた最初の決定は、まだ国を変えてはいない。

 けれど確かに、余白にはもう字が入ったのだった。

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