第六章 選択編 第6話 成功でも失敗でもない
ルーナの石橋の修繕は、採決から二日後に始まった。
村の男たちが朝から石を運び、年かさの女たちは縄を撚り、子どもたちは大人に叱られながらも小石を拾って走り回った。村に残っていた古い石工が、崩れかけた欄干の根元を杖で叩きながら、どこに力が逃げているかを確かめる。作業は遅く、不器用で、都会の工兵隊のような手際など望めない。だが、その遅さの中には自分たちで決めた仕事を自分たちの手で始める、奇妙な真剣さがあった。
ミレスからは最低限の資材だけが送られた。南堰の補修で手が取られている以上、大掛かりな支援はできない。レオネルは申し訳なさを覚えながらも、今の役所にできる範囲を越えて約束する気にはなれなかった。約束は、守れなければただの裏切りになる。
村長ハドから届いた最初の報告には、短い一文が添えられていた。
――橋はまだある。人もまだ納得していない。
レオネルはその文を二度読み返したあと、小さく息を吐いた。
正直すぎると思った。
だがたぶん、それが今のこの国で一番信用できる種類の報告だった。
石橋の補修が進んだことで、少なくとも目に見える不安は一つ減った。荷車はまだゆっくりとしか通れないが、崩れ落ちる前の心許なさは薄れた。村の者たちは夕暮れになると橋のたもとに立ち、石積みの継ぎ目を眺めては、誰からともなく頷き合った。
「これで春の増水は少しは持つ」
「荷も運べる」
「病人が出ても町へ渡れる」
そうした言葉が、ようやく決定を正しかったものにしてくれるように思えた。
だが、正しさはたいてい、そう簡単には居着かない。
十日後、北から冷たい風が下りてきた。
春の半ばを過ぎていたのに、朝の畑には白いものが薄く降りた。霜というには柔らかく、雪というには頼りない、季節外れの冷えだった。麦の若芽が痛み、菜の葉がしおれる。日が昇れば溶ける程度のものだったが、それでも村の者たちには十分すぎる警告になった。
備蓄派だった若い母親は、畑の縁にしゃがみ込んで黒ずんだ葉先を指でなぞった。彼女の隣で、橋派だった羊毛運びの男が、何も言えずに空を見上げている。
たった一夜の冷えで飢えるわけではない。
だが、“もしも”が具体的な顔を持った瞬間、人の心は簡単に揺れる。
その日の夕方、ルーナでは再び納屋に人が集まった。前回より人数は少なかった。忙しさもあるだろう。けれどそれ以上に、決まったはずのことをまた持ち出すことに、ためらいと疲れがあった。
「だから言ったんだ」誰かが言った。
「一晩冷えただけだろ」別の誰かが返した。
「一晩で済まなかったら?」
「橋を直したこと自体が間違いだったみたいに言うな」
前回の議論にはまだ、どこか初めてのことをする高揚があった。
今夜の言葉には、選んだあとでしか生まれない棘があった。
村長ハドは両手を広げて場を鎮めようとしたが、効き目は薄い。書記役として再び来ていた少年は、炭筆を持つ手を止めるかどうか迷っていた。こんなやり取りまで記録すべきなのか。後に残れば、村は分裂したように見えるのではないか。だが、記録しないなら何のためにここにいるのか。
「書いて」年配の粉屋の妻が言った。
少年が顔を上げる。
「でも……」
「都合の悪いことほど、あとで人は“そんなことは言っていない”って言うから」
その言葉に、少年は黙って頷いた。
炭筆がまた動き始める。
――冷え込みにより備蓄不足への不安再燃。
――橋修繕の決定への不満、一部にあり。
――ただし修繕の必要そのものを否定する意見ばかりではない。
書きながら少年は思った。
成功、と書ければどれだけ楽だろう。
失敗、と断じられればどれだけ整理がつくだろう。
だが実際には、どちらにもならないものばかりが生きた現場には積み上がる。
橋は必要だった。
備蓄も必要だった。
両方を満たせないから選んだ。
選んだあとに、選ばなかった方の必要が消えるわけではない。
それはあまりに当たり前で、あまりに苦い事実だった。
数日後、石橋の補修はひとまず終わった。村人たちは一頭立ての荷車を恐る恐る渡らせ、軋みの少なさに安堵した。修繕は確かに効果があったのだ。川の上を荷が渡る。羊毛も、薬も、鉄器も運べる。もし橋が落ちていれば、村はもっと弱っていただろう。
だが同じ頃、備蓄庫の中では袋の数が少ないままだった。
不足はまだ現実になっていない。
けれど、人は足りない未来の影を、時に現在の利益より強く感じる。
ルーナから戻った書記見習いの少年は、役所で報告書をまとめながら何度も筆を止めた。
「どう書けばいいと思います」
向かいに座るレオネルに、とうとうそう尋ねた。
「何を」
「橋の修繕は成果がありました。けれど村は不安のままです。前の決定を間違いだったという人もいるし、いや必要だったという人もいる。……これは成功なんでしょうか。失敗なんでしょうか」
レオネルは、机の上に置かれた報告紙に目を落とした。
そこには、石の数や作業日数の他に、村人の短い言葉がいくつも書き留められている。
安心した。
まだ怖い。
橋は助かる。
冬が怖い。
どれも本当だった。
「そのまま書けばいい」
「そのまま?」
「成功とも失敗とも断じがたい、って」
少年は困ったように眉を寄せた。
「そんな曖昧な書き方でいいんですか」
「いいのかもしれないし、よくないのかもしれない。でも、嘘よりはいい」
少年はしばらく考え、それから小さく頷いた。
その夜、倉庫の二階の討議所でもルーナの話が出た。町の者たちは結果を聞きたがった。村が自分たちで決めてどうなったのか。成功したのか失敗したのか。その問いは、実は村のこと以上に、自分たちの未来を知りたい気持ちから出ていた。
書記見習いの少年が記録を読み上げる。橋修繕の進行。冷え込み。再燃した不安。揺れる村の声。読み終えると、しばらく誰も何も言わなかった。
「……中途半端だな」肉屋が最初に呟いた。
「現実なんて、だいたいそういうものよ」リュシアが答えた。
「でも、決めたんだろ」
「決めても、すべてが片づくわけじゃないってことだろうな」
その言葉は、場にいた多くの者の腹に落ちた。
決定とは終わりではなく、別の不安の始まりでもある。
それを初めて知るには、ルーナのような小さな村の話で十分だった。
壁際で聞いていたアリアは、油灯の揺れを見つめていた。エリオンが低く言う。
「美しい見本にはならなかったな」
「ええ」
「失敗でもない」
「そうね」
「一番扱いにくい」
アリアはごくわずかに笑った。
「だから意味があるのよ」
「人は教訓にしにくい曖昧さを嫌う」
「でも国は、そういう曖昧な選択の積み重ねでできているわ。勝ち負けがはっきりしていることの方が、むしろ少ない」
窓の外では、夜風が倉庫の壁を撫でていた。
風は答えを与えない。
ただ、決めたあとにも揺れが残ることだけを、静かに知らせていた。




