第89話 存在価値
レオンはセリオスの前まで歩き、その足を止めた。
出発の時刻は迫っている。
聖騎士達は既に準備を終え、あとはセリオスが馬車へ乗り込むのを待つだけだった。
だが、レオンにはまだ渡していないものがある。
その手には、小さな瓶が握られていた。
先ほど、クロエから受け取ったものだ。
「セリオスさん」
呼び掛けられたセリオスが振り返る。
「はい?」
レオンは手にした小瓶を差し出した。
「これを」
セリオスは不思議そうな顔をしながら、それを受け取った。
そして、小瓶の中にある無色透明の液体を見た瞬間、その表情が固まる。
「これは……」
赤い瞳が大きく見開かれた。
まるで、存在するはずのないものを目の当たりにしたような顔だった。
セリオスは小瓶を朝日にかざし、震えるような声で呟く。
「まさか……賢者の秘薬……」
周囲が静まり返った。
ゼムも驚いたように目を見開く。
「ご存じなのですか?」
「存在だけは……」
セリオスは小瓶から目を離さないまま答えた。
「賢者様が残したとされる秘薬です。魔力侵食症を含む、様々な病や呪いの進行を遅らせる効果があると伝えられています」
その声には、隠し切れない驚きが滲んでいた。
「ですが、現在では製法も材料も失われています。教国にも僅かな記録が残されているだけです」
セリオスは信じられないという表情で、小瓶を見つめ続ける。
「私も、実物を見るのは初めてです」
しかし、次の瞬間。
セリオスは小瓶を両手で持つと、そっとレオンへ差し出した。
「受け取れません」
レオンは眉をひそめる。
「なぜです?」
「これは、もう二度と手に入らないかもしれない薬です」
セリオスは困ったように苦笑した。
「それに、レオンさんは毎日のように魔法の訓練を続けています。これから先も、多くの魔力を使うことになるでしょう」
父であるグラニウスも、魔力を使い続けた末に魔力侵食症を発症した。
その息子であるレオンにも、同じ病を患う可能性がないとは言い切れない。
「いつか、この薬がレオンさんに必要になるかもしれません」
レオンは迷わず首を振った。
「私は、まだ病にかかっていません」
セリオスが言葉を止める。
レオンはその赤い瞳を真っ直ぐに見返した。
「ですが、セリオスさんは違います」
静かな声だった。
だが、そこに迷いはなかった。
「今、この薬を必要としているのはセリオスさんです」
セリオスは返す言葉を失った。
手の中の小瓶を見つめ、僅かに唇を結ぶ。
「それに……私は、ある人から学びました」
セリオスが顔を上げる。
レオンはほんの少しだけ笑った。
「目の前で困っている人を助けることを」
その意味を理解するのに、時間はかからなかった。
傷ついた兵士へ、自らの全財産を差し出した人。
他国にある孤児院の子供達を心配し、遠い辺境の地まで足を運んだ人。
自らも病を抱えながら、誰かを救うために回復魔法を使い続けてきた人。
その全てが、目の前にいるセリオスだった。
レオンは、彼の姿を見て学んだのだ。
セリオスは思わず苦笑した。
「それは……教える相手を間違えましたね」
「いえ」
レオンは首を振る。
「良い教えだと思います」
しばらく沈黙が続いた。
セリオスは小瓶とレオンの顔を交互に見る。
やがて観念したように息を吐くと、差し出していた手を引いた。
そして、小瓶を大切そうに胸元へしまう。
「ありがとうございます」
今度は、返そうとはしなかった。
レオンも静かに頷く。
「その薬でも、魔力侵食症を治すことはできません」
「ええ。分かっています」
セリオスは胸元へ手を添えた。
「賢者の秘薬であっても、失われた魔力回路を元へ戻すことはできません。魔力侵食症を完治させる薬ではありませんから」
「ですが、進行を遅らせることはできます」
レオンは真剣な表情でセリオスを見る。
「無理なお願いだとは思いますが……できるだけ魔法を使うのも控えてください」
セリオスは僅かに目を細めた。
「難しいお願いですね」
「分かっています」
レオンも苦笑する。
セリオスが、目の前で苦しんでいる者を見捨てられないことは知っている。
誰かを助けられるのなら、自らの身体へかかる負担など後回しにしてしまうことも。
だからこそ、言わずにはいられなかった。
少しでも魔力を使う回数を減らしてほしい。
少しでも長く生きてほしい。
それだけだった。
セリオスはしばらく黙っていた。
やがて何かを思い出したように、自らの白い髪へ触れる。
柔らかな髪が、朝の風に揺れた。
「この白い髪と赤い瞳は、教国では不吉なものの象徴なのです」
突然の言葉に、クロエの表情が曇った。
セリオスは自らの髪を指先で摘まみながら、静かに続ける。
「幼い頃から、何度も言われてきました」
気味が悪い。
不吉だ。
縁起が悪い。
その言葉を向けられるたびに、人々はセリオスから距離を取った。
同じ場所へいることすら嫌う者もいた。
だが、それを語るセリオスの声に恨みはなかった。
ただ、過去に起きた事実を淡々と並べているだけだった。
だからこそ、その言葉は重かった。
セリオスは小さく笑う。
「だから……嫌悪の対象である僕に価値があるとすれば、誰かを助けることだけなのだと思っていました」
その瞬間だけ、一人称が変わった。
教国の枢機卿でも、慈愛の聖人でもない。
誰かに嫌われることを恐れていた、幼い頃のセリオスへ戻ったようだった。
レオンは不思議そうに首を傾げる。
「そうでしょうか?」
セリオスが目を瞬かせた。
「俺は、そうは思いません」
「ですが……」
「人の価値は、自分一人で決めるものではないと思います」
レオンは領都の外れにある丘へ視線を向けた。
ここからでは、グラニウスの墓をはっきり見ることはできない。
それでも、その場所がどこにあるのかは分かる。
今も無数の花に囲まれている、父の墓。
グラニウス自身が、自分の価値を口にすることはなかった。
ただ領民を守り、救い続けた。
そして亡くなった今も、多くの者が父を慕い、花を供え続けている。
人の価値を決めるのは、自分だけではない。
その人に救われた者。
共に過ごした者。
大切に思う者。
そうした人々の中にも、その人が生きた価値は残り続ける。
レオンは、何かを言い掛けたセリオスの言葉を遮った。
「それに……」
セリオスへ視線を戻す。
白い髪。
赤い瞳。
その姿を改めて見たレオンは、何でもないことのように言った。
「雪兎みたいで、可愛いと思いますけどね」
セリオスが固まった。
赤い瞳が、僅かに見開かれる。
予想外の反応に、クロエが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
セリオスはすぐには答えなかった。
レオンの顔を見つめた後、どこか遠くを見るように目を細める。
そして、小さく笑った。
「いえ……昔にも、一人だけいたのです」
レオン達は黙って続きを待った。
セリオスは風に揺れる白い髪へ、もう一度触れる。
「同じことを言ってくれた人が」
幼い頃の記憶が蘇る。
いつもセリオスを助けてくれた少女。
誰かが困っていれば、真っ先に駆けつける。
自信満々に胸を張り、まるで物語に登場する英雄のように笑う女の子。
血の匂い。
傷ついた身体。
それでも、最後まで自分を安心させようと優しく笑っていた姿。
セリオスはゆっくりと目を閉じた。
春の風が、白い髪を静かに揺らしていく。
「懐かしいですね」
その声は穏やかだった。
だが、どこか僅かに寂しそうでもあった。
レオン達は何も尋ねなかった。
今は、聞くべきではない。
何となく、そう感じたからだ。
しばらくして、セリオスは目を開いた。
その顔には、いつもの優しい笑みが戻っている。
「ありがとうございます」
それは、秘薬に対する礼だけではなかった。
掛けられた言葉も。
自分を案じてくれた気持ちも。
全てを含めた感謝だった。
レオンは静かに頷く。
「長生きしてください」
セリオスは少しだけ目を細めた。
「努力します」
その返事は、以前よりもほんの少しだけ前を向いているように聞こえた。
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