第90話 旅立ち
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
静かな風だけが、ノルディア邸の正門前を吹き抜けていく。
セリオスは胸元へしまった賢者の秘薬へ、そっと手を触れた。
それから、穏やかに笑う。
「本当に、最後まで驚かされました」
レオンは苦笑した。
「そうですか?」
「ええ」
セリオスは頷く。
「普通なら、これほど貴重な秘薬を他人へ渡したりはしません。治すことのできない病を患う者に、希望を与えようともしないでしょう。ましてや、他国の人間をここまで信じることなどありません」
そこで言葉を区切り、小さく笑った。
「ですが、レオンさんはそういう人でした」
レオンは肩を竦める。
「褒めています?」
「褒めています」
即答だった。
クロエが思わず吹き出す。
「そこは迷わないんだ」
「迷う理由がありませんから」
セリオスは笑った。
それから、見送りに集まった人々を改めて見渡す。
ゼム。
リック。
シスター。
ラッツとリン。
そして、孤児院の子供達。
ノルディア領で過ごしたのは、僅か数か月。
振り返れば、瞬く間に過ぎてしまったようにも思える。
それでも、この地で経験した全てが、忘れ難い記憶としてセリオスの中に残っていた。
セリオスはシスターへ向き直る。
「孤児院のことを、よろしくお願いします」
シスターは深く頭を下げた。
「お任せください。子供達も、立派に育ててみせます」
その言葉を聞き、セリオスは満足そうに頷いた。
続いて、ラッツへ目を向ける。
「魔力草のことも、お願いしますね」
ラッツは真剣な表情で頷く。
「はい。任せてください」
迷いのない返事だった。
初めて会った頃と比べれば、表情にも声にも確かな自信が感じられる。
セリオスは嬉しそうに微笑み、最後にリンを見た。
なぜか、リンは胸を張っている。
その姿を見た瞬間、レオンは嫌な予感を覚えた。
「リンさんも、お願いしますね」
「はい!」
リンは元気よく返事をした。
そして、満面の笑みを浮かべる。
「次に来る時までにレオン様が愛妾にしてくれなかったら、私がセリオス様のお嫁さんになってあげるね!」
セリオスが固まった。
護衛の聖騎士達も一斉に動きを止める。
クロエは堪え切れずに吹き出し、ラッツは頭を抱えた。
ゼムは何も聞かなかったことにするように、静かに空を見上げる。
「リン、困らせるな」
レオンは即座に止めた。
「なんで!?」
「なんでもだ」
「セリオス様は優しいし、お金持ちだし、偉い人だよ!」
「そういう問題ではない」
リンは頬を膨らませた。
明らかに納得していない。
そんなリンを見下ろし、セリオスは困ったように笑った。
「それは、次に来た時に考えましょう」
「はい!」
どういうわけか、リンは満足そうに頷いた。
「考えなくていいですからね?」
レオンが念を押すと、クロエはますます肩を震わせる。
ラッツはセリオスと聖騎士達へ向かい、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません……」
「いえ」
セリオスは苦笑しながら首を振る。
「元気なのは良いことですから」
その言葉に、周囲の子供達からも笑い声が上がった。
別れを前にして沈みかけていた空気が、僅かに和らいでいく。
やがて笑い声が収まると、セリオスは最後にレオンへ向き直った。
「レオンさん」
「はい」
セリオスは一歩前へ出る。
そして、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
その一言には、様々な思いが込められていた。
孤児院の子供達を救ってくれたこと。
魔力草の栽培を成し遂げたこと。
回復薬を生み出す道を示してくれたこと。
賢者の秘薬を譲ってくれたこと。
そして、誰にも明かせなかった病を打ち明け、その全てを受け止めてもらえたこと。
そのどれか一つに対する言葉ではない。
この数か月の全てに対する感謝だった。
レオンも静かに頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございました」
セリオスは顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
そして踵を返すと、教国の馬車へ乗り込む。
護衛の聖騎士達も、それぞれの馬へ跨がった。
御者が手綱を握り、いよいよ出発しようとした、その時だった。
馬車の窓が開き、セリオスが顔を覗かせる。
「二か月後には、エミルがこちらへ参ります」
レオンは馬車へ顔を向けた。
「彼女のことを、よろしくお願いします」
「お任せください」
レオンが頷くと、セリオスも安心したように頷き返す。
そして、最後にもう一度笑った。
「また来ます」
レオンも小さく笑う。
「お待ちしています」
御者が手綱を鳴らした。
馬が歩き始め、馬車がゆっくりと動き出す。
「ばいばーい!」
「また来てねー!」
「約束だぞー!」
孤児院の子供達が、懸命に手を振る。
セリオスも窓から手を伸ばし、その姿が見えなくなるまで振り返していた。
馬車は少しずつ遠ざかっていく。
風に揺れる教国の旗が小さくなり、やがて道の向こうへ消えていった。
再び、静寂が訪れる。
誰も、すぐにはその場を動こうとしなかった。
レオンは馬車が消えた先を、じっと見つめていた。
始まりは、人身売買への疑いだった。
孤児院から子供達を連れ去ろうとしているのではないか。
そんな疑念から始まった出会いだった。
だが、セリオスはノルディア領へ多くのものを残していった。
魔力草。
回復薬。
ポーション。
ハイポーション。
そして、教国との新たな繋がり。
この出会いがなければ、どれも生まれなかったかもしれない。
レオンは小さく息を吐いた。
「……さて」
隣へクロエが並ぶ。
「帰る?」
「ああ」
やるべきことは、まだ山ほど残っている。
魔力草の安定した栽培。
ポーション事業の拡大。
二万枚の金貨を稼ぐという目標。
そして、クラリスを待つ未来を変えること。
立ち止まっている暇はない。
レオンは正門へ背を向け、歩き出した。
自らの手で、望む未来を掴み取るために。




