第86話 見送りの準備
セリオスが帰った後、執務室には静かな時間が流れていた。
レオンは机の上へ視線を落とす。
積み上げられた大量の資料。
そして、手元に残された折り畳みの紙。
どちらも、その価値は計り知れない。
クロエが椅子へ座り直し、ぽつりと呟いた。
「本当に帰るんだね」
「そうだな」
明後日、セリオスは教国へ戻る。
数か月に及んだ長い滞在も、間もなく終わりを迎える。
クロエは机の上に積まれた資料を眺めた。
「何か変な感じ」
「変か?」
「うん」
クロエは頷く。
「最初は、レオンが人身売買の犯人扱いされてたし」
レオンは思わず苦笑した。
確かに、そうだった。
孤児院から子供達が急激に減ったことを知り、セリオスは領主であるレオンが関与しているのではないかと疑った。
結果は完全な勘違いだったが、今となっては随分と昔のことのように感じられる。
「それが、まさか一緒に回復薬を作ることになるなんてね」
「俺も想像していなかった」
魔力草。
回復薬。
ポーション。
そして、ハイポーション。
その全てが、当初の予定にはなかったものだ。
だが、どれも確実にノルディア領の未来へ繋がっている。
それまで黙っていたゼムが、机の上の資料を見ながら口を開いた。
「問題は、これからでございますね」
「何がだ?」
「量産です」
その一言に、レオンも頷いた。
魔力草の栽培には成功した。
しかし、まだ成功しただけに過ぎない。
本番はこれからだ。
孤児院での栽培。
薬の製造。
完成品の保管。
各地への輸送と販売。
品質の管理や、教国との調整も必要になる。
やらなければならないことは、いくらでもあった。
クロエも腕を組みながら言う。
「瓶も必要だよね」
「ああ」
ポーションもハイポーションも液体だ。
量産するなら、それを詰める容器も大量に用意しなければならない。
「ガラス職人を探す必要があるな」
「王都から呼ぶの?」
「恐らくは」
ノルディア領にもガラスを扱える職人がいないわけではない。
しかし、今後必要になる数を安定して生産できるかとなれば、話は別だった。
薬の品質を保つためには、瓶の形や大きさも揃えなければならない。
王都の工房へ発注するか。
腕の良い職人をノルディアへ招くか。
どちらにせよ、また一つ仕事が増える。
クロエは何かを考えるように目を細める。
「でも、これが売れたら凄いことになるよね」
「なるだろうな」
教国の回復薬より安価なポーション。
教国の回復薬を上回る効能を持つハイポーション。
どちらも需要は高い。
特に魔物と戦う冒険者や兵士にとって、回復薬は命へ直結する品だ。
効果と価格次第では、王国中から買い手が集まる可能性もある。
ゼムも静かに頷いた。
「王国各地から注文が届くかもしれません」
「その前に、生産が追いつかなくなりそうだがな」
レオンは苦笑した。
売れること自体は喜ばしい。
だが、生産能力を超える注文が集まれば、それはそれで問題になる。
魔力草をどれだけ増やせるのか。
一日に何本の薬を作れるのか。
孤児院の子供達へ、どこまで仕事を任せられるのか。
まだ何一つ、明確な数字は出ていなかった。
その時、クロエが何かを思い出したように口を開く。
「そういえば」
「何だ?」
「二万枚」
レオンは顔を上げた。
金貨二万枚。
クラリスを救うために掲げた目標金額だった。
ゲームの中で必要とされたのは金貨二千枚。
だが、不確かな記憶だけに全てを懸けるわけにはいかない。
何が起きても対応できるよう、レオンはその十倍を目標に定めていた。
クロエは僅かに笑う。
「少し見えてきたんじゃない?」
レオンは窓の外へ目を向けた。
既に日は傾き、空は淡い茜色に染まり始めている。
まだ、分からない。
薬の価格すら決まっていない。
利益も出ていなければ、安定して量産できる保証もない。
それでも、以前より遥かに前へ進んでいた。
「そうかもしれないな」
レオンは小さく呟いた。
この世界に、何もしなくても手に入る平穏な未来はない。
帝国との戦争。
魔獣の氾濫。
王国を揺るがす貴族粛清。
そして、いずれ訪れる最悪の厄災。
どの物語を辿ったとしても、ノルディア領は危機に晒される。
だからこそ、金が必要だった。
領地を守るために。
大切な者達を守るために。
そして、破滅へ向かうクラリスを救うために。
レオンは再び、机の上へ視線を戻した。
魔力草の栽培。
ポーションとハイポーションの製造。
それらが、どれほどの利益を生むのかはまだ誰にも分からない。
だが、ノルディアの未来を変える切り札になり得る。
そんな予感だけはあった。
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
三人が揃って顔を上げた。
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、リックだった。
「旦那……」
「どうした?」
リックはレオンの前まで進むと、姿勢を正して敬礼する。
しかし、その表情には僅かな困惑が浮かんでいた。
「孤児院から連絡です」
レオンが眉をひそめる。
「何かあったのか?」
「いえ」
リックは首を振った。
「魔力草の件です」
そこで一度、言葉を切る。
なぜか、その視線がゆっくりとクロエへ向けられた。
「どうやら……大変順調なようでして。少し確認してほしいとのことです」
クロエの青い瞳が僅かに細くなる。
何となく、嫌な予感がした。
リックは気まずそうに目を逸らす。
「ごめん、姐さん……」
数秒間、執務室に沈黙が流れた。
やがてクロエが、音もなく椅子から立ち上がる。
「レオン」
「何だ?」
「今日、ご飯に行けないじゃん!」
クロエの叫び声が執務室へ響き渡った。
レオンは片手で額を押さえる。
ゼムは静かに目を閉じた。
リックは心の中でそっと手を合わせる。
本当に申し訳ない。
だが、これも仕事なのだ。
「仕方ないだろう。確認へ行くぞ」
「ボク、今日は絶対に仕事しないつもりだったのに!」
「普段から大してしていないだろ」
「してるよ! 応援してる!」
「それを仕事に数えるな」
言い合いながら、レオンとクロエは執務室を出る準備を始める。
ゼムも当然のように二人の後へ続き、リックは申し訳なさそうな顔のまま道を譲った。
魔力草事業は順調だった。
順調すぎるほどに。
そして、それに比例するように、レオン達の仕事も増え続けていた。




