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乙女ゲーの辺境伯に転生したので奴隷落ちする悪役令嬢を金貨2万枚で救おうと思います(編集中)  作者: トンビが鷹を産んだトンビの方
第4章 新事業と枢機卿

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第85話 託されたもの

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 執務室には重苦しい沈黙が流れている。

 机の上には、魔力回路の譲渡について記された古びた革表紙の本。


 レオンも、クロエも、ゼムも、それぞれの胸に浮かんだ思いを言葉にできずにいた。

 その沈黙を破ったのは、セリオスだった。


「少し、重い話になってしまいましたね」


 そう言って、困ったように苦笑する。

 クロエも、ようやく止めていた息を吐き出した。


「十分重いよ……。ご飯を食べる前にする話じゃないよね」


「申し訳ありません」


 セリオスが素直に頭を下げる。

 その様子を見て、クロエは呆れたように苦笑した。


「そこは謝るところじゃないでしょ」


「そうでしょうか?」


「そうだよ」


 いつものような短いやり取りに、張り詰めていた空気が僅かに和らぐ。

 セリオスも小さく微笑んだ。

 だが、すぐに表情を改める。


「ですが、これで隠し事はなくなりました」


 レオンは静かに頷いた。

 セリオスは、自らが魔力侵食症を患っていることを隠していた。

 教国の者達にも、ほとんど知らせていない秘密。

 だが、セリオスはそれを自分達へ打ち明けた。

 少なくとも、この部屋にいる者達には、もう隠すつもりはないのだろう。


「これからは、正式に皆さんへ協力をお願いできます」


 セリオスの言葉に、クロエが首を傾げる。


「正式に?」


「はい」


 セリオスは足元に置いていた鞄へ手を伸ばした。

 中から数冊の本と、紐で束ねられた資料を取り出し、机の上へ順番に置いていく。

 どの本も古く、表紙や背表紙が擦り切れていた。

 何度も読み返されたのだろう。

 開かずとも、長い間使い込まれてきたことが分かる。


 表紙には教国の紋章が刻まれていた。

 レオンは僅かに目を細める。


「これは?」


「私がこれまでに集めた資料です」


 セリオスは、机へ置いたものを一つずつ示していく。


「魔力侵食症について記された文献。魔力回路の構造に関する研究。魔力草と回復薬の資料。それから、治癒魔法が身体へ与える影響についてまとめられた本です」


 さらに、紐で束ねられた紙へ手を置く。


「その他にも、病気と関係している可能性があるものは、できる限り持ってきました」


 クロエが机の上へ並べられた資料を見回す。


「これ、全部?」


「はい」


 セリオスは頷いた。


「元々は、私一人で調べるつもりでしたので」


 レオンも、改めて資料へ視線を落とした。

 かなりの量だった。

 教国で集められた医療と魔法に関する文献。

 中には、王国では手に入れることすら難しいものもあるだろう。

 その価値は計り知れない。


「私達が見てもよいのですか?」


「もちろんです」


 セリオスは迷うことなく答えた。


「私一人で調べるより、皆さんにも協力していただいた方が、何かを見つけられる可能性は高くなりますから」


 あまりにもセリオスらしい答えだった。

 普通なら、自らの病を隠すために資料まで秘匿しようとする。

 だが、セリオスは違う。

 僅かでも治療法を見つける可能性を高めるため、これまで集めた知識を全て共有しようとしている。

 レオンは思わず苦笑した。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとうございます」


 セリオスは嬉しそうに微笑んだ。

 しかし、その視線はすぐに机の上へ落ちる。


「正直に申し上げれば、私は少し焦っていました」


 レオン達は何も言わず、続きを待った。


「病が分かってから、様々な文献を調べました。教国に残された古い記録にも目を通しました」


 セリオスは、擦り切れた本の表紙を指先で撫でる。


「ですが、得られた成果はほとんどありませんでした。魔力の使用を控える。魔力草から作った薬を服用する。進行を遅らせる方法は、幾つかあります」


 そこで、小さく息を吐いた。


「ですが、病そのものを治す方法は見つからなかった」


 それから、自嘲するように笑う。


「枢機卿でありながら、情けない話です」


「そんなことはありません」


 レオンは、即座に否定した。

 セリオスが驚いたように顔を上げる。


「父も、同じ病を患っていました」


 レオンは静かに続けた。


「ノルディア家の力を使い、王国中から資料を集めました。治療法を知っていそうな者にも、できる限り声をかけたはずです」


 それでも、治療法は見つからなかった。

 王国最強と呼ばれたグラニウスを救える者は、最後まで現れなかった。


「セリオスさんだけが見つけられないわけではありません。それだけ、この病を治すことが難しいということです」


 レオンはセリオスを真っ直ぐに見る。


「それに、自分の命が少しずつ失われていくと知って、怖くないはずがないでしょう」


 セリオスは目を見開いた。

 枢機卿でも。

 慈愛の聖人でも。

 優れた回復魔法を使える者でも。

 死を恐れないわけではない。


 治療法が見つからず、焦るのは当然のことだった。

 やがてセリオスは、僅かに表情を和らげる。


「ありがとうございます」


 その笑顔は、どこか救われたように見えた。

 クロエも明るく声をかける。


「それにさ、病気が分かってから、まだ半年なんでしょ?」


「ええ」


「だったら、グラニウス様の時よりもずっと早く気づけたってことじゃない。まだ時間はあるよ」


 セリオスは何度か瞬きをした。

 それから、ゆっくりと頷く。


「そうですね」


 先ほどよりも自然な笑みを浮かべる。


「まだ、時間はありますね」


 レオンも小さく頷いた。


 時間はある。

 だから、諦める必要はない。

 父の病を知った時には、残された時間があまりにも少なかった。

 治療法を探し当てても、それを持ち帰るまで間に合わなかった。


 だが、今は違う。

 セリオスの病は、まだ初期の段階だ。

 調べる時間がある。

 試す時間がある。


 そして、一人ではない。

 レオン達も、共に治療法を探すことができる。


「それでは、今日はこれで失礼します」


 セリオスが椅子から立ち上がる。


「明後日には出発しますので、荷物の整理も終わらせなければなりません」


 レオンも立ち上がった。


「分かりました」


 クロエも席を離れ、セリオスを見る。


「今度ノルディアへ来る時は、病気を治してから来てよ」


 あまりにも無茶な注文だった。

 だが、セリオスは楽しそうに笑った。


「努力します」


「約束だよ?」


「善処します」


「逃げた!」


 クロエが即座に突っ込む。

 セリオスは困ったように笑いながら、執務室の扉へ向かった。

 だが、扉へ辿り着く前に足を止める。


「……あっ」


 何かを思い出したように声を上げた。

 懐へ手を入れ、何重にも折り畳まれた紙の束を取り出す。


「そうでした。これをお渡しするのを忘れていました」


 セリオスは踵を返し、その紙をレオンへ差し出した。


 受け取った瞬間、レオンは僅かに眉を上げる。


 見た目よりも、かなり厚い。


「これは?」


 紙を開いたレオンは、その場で動きを止めた。

 一枚ではない。

 何枚もの紙が、順番を崩さないよう丁寧にまとめられている。

 しかも、全ての紙へ細かな文字がびっしりと書き込まれていた。


 回復魔法の基礎理論。

 身体強化との違い。

 対象へ魔力を流す方法。

 初歩から段階的に行う訓練。

 失敗しやすい魔力操作。

 身体へ負担をかけないための注意点。

 習得する者の癖に合わせた修正方法。


 そこには、セリオス自身が長い年月をかけて積み重ねてきた経験まで、惜しむことなく記されていた。

 クロエもレオンの横から紙を覗き込む。

 書き込まれた膨大な文字を見た瞬間、その顔が引きつった。


「うわぁ……何これ……」


「回復魔法の訓練方法です」


 セリオスは少し照れたように笑った。


「私が帰国した後、レオンさんが一人でも訓練を続けられるようにまとめました」


 レオンは、改めて手元の紙を見る。

 一日や二日で書ける量ではない。

 おそらく、レオンへ治癒魔法のことを打ち明けると決めた時から、少しずつ準備していたのだろう。

 クロエは紙の束を見た後、ゆっくりとセリオスへ顔を向けた。


「ねえ……これ、絶対に教国の人から怒られるやつだよね?」


 セリオスの動きが止まる。


「えっと……」


「怒られるんだ」


 クロエが即座に断定した。

 セリオスは気まずそうに視線を逸らす。


「多分……」


「多分じゃないでしょ」


 クロエは呆れたようにため息を吐いた。

 セリオスは取り繕うように苦笑する。


「大丈夫ですよ。教国の秘術を記したものではありません。あくまでも、私個人の経験と訓練方法をまとめただけですから」


「その個人の経験が、教国でも最高峰なんだけど」


 クロエがすぐに突っ込む。

 レオンも思わず苦笑した。

 慈愛の聖人と呼ばれるセリオスが、自らの経験を余すことなく記した訓練記録。

 それだけで、並の魔法書など比較にもならない価値を持つだろう。


 セリオスは気にした様子もなく続ける。


「分からないところがあれば、手紙を送ってください。私でよければ、可能な限りお答えします」


 レオンは紙の束を大切に持ち直し、小さく笑った。


「ありがとうございます」


「いえ。私も楽しみですから」


「何がですか?」


 レオンが尋ねる。

 セリオスは、どこか期待するように微笑んだ。


「レオンさんが、これからどこまで成長するのかです」


 クロエが呆れたように笑う。


「もう完全に先生じゃん」


「一応、教国では講師も務めていますので」


 セリオスは少しだけ胸を張った。

 その仕草が妙に誇らしげで、クロエが吹き出す。

 レオンも苦笑した。


 先ほどまで執務室を満たしていた重苦しい空気が、少しずつ軽くなっていく。

 セリオスは改めて三人へ頭を下げた。


「それでは、失礼します」


 再び扉へ向かい、取っ手へ手をかける。

 だが、扉を開く前に振り返った。


「レオンさん」


「はい」


 セリオスは、真っ直ぐレオンを見る。


「ありがとうございました」


 病を打ち明けたことへの感謝なのか。

 魔法陣を見せたことへの感謝なのか。

 それとも、一緒に治療法を探すと伝えたことへの感謝なのか。

 その全てなのかもしれない。


 レオンも静かに頷いた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 セリオスは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

 そして扉を開き、執務室を後にする。

 扉が閉じると、再び静寂が戻った。

 机の上には、魔力侵食症に関する大量の資料。

 レオンの手には、回復魔法の訓練方法が書かれた紙の束。


 父を救うために始めた研究。

 けれど、父を救うことはできなかった。

 それでも、その時に集めた知識が失われたわけではない。


 セリオスが集めた知識と合わせれば、今度こそ何かを見つけられるかもしれない。

 今度こそ、誰かの命を救えるかもしれない。

 レオンは手にした紙を静かに見つめた。


 まだ終わっていない。

 今度は、そう思うことができた。

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